「アメリカ合衆国における避妊の普及」
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---結論
人の命と直結することをテーマに据えたいと願って書き始めた。「何をもって人命とするか」という問いが人権問題に及ぼす影響を考えることから出発したのは序論で述べたとおりである。ところが、人命そのものの価値も絶対的なものではなく、「人命はなにものにも代えがたい」というクリシェを真ならしめるためには、間にかなりの数の条件を挟む必要があるらしいことがわかった。それまでに産み育ててきた子どもたちをこの上ない喜び、誇りとする母親たちがいる一方で、ただのリスクとしか見なされないことも往々にしてある。しかしここで大切なことは、それらを異常なこととして排除したり、善悪判断を下したりすることではない。
本稿はこれまで、避妊をとりまくコンテクストを「反対しなければならなかったもの」と「反対しなかったもの」とに分け、さらにその立ち位置によって「第三者によるもの」と「当事者によるもの」を区別して分析を行なってきた。一連の作業を通して第1章で述べた「政治家や医師、聖職者などの男性エリート層と、自らの身体をコントロールする権利を獲得しようとする女性たちを中心とした運動家の闘い」という枠組みに対して覚えた違和感のありかが、少しずつ明らかになってきた。まず、第三者として避妊に「反対しなければならなかった」コンテクストは、生殖が抑制されることが問題とされる場合と、生殖を目的としない性交が行なわれることを問題とする場合とに分けられた。第三者たちは前者が社会的秩序に、後者が道徳意識に関わる、それぞれ抽象的な問題意識を持っていたのに対して、当事者を避妊から遠ざけたのは習慣を変えることへの抵抗というはるかに実際的かつ具体的なものだった。避妊に「反対しなかった」コンテクストには社会的秩序や道徳意識の価値を尊重しつつ、別のアプローチによって目的を達成しようとするものも見られた。第三者たちにとって避妊は人種を自殺に追いやる恐れもある「毒」であると同時に、社会的秩序をコントロールするための「薬」として用いることができると考えられていた。
それでは、こうしたコンテクストが重なりあうなかで、なぜ避妊が普及するほうに傾いたのか考えてみよう。20世紀前半のアメリカ合衆国において避妊が普及した理由は、大きく分けて4つにまとめることができる。第一に、この時期に避妊技術の革新があった。従来的な避妊は射精をコントロールする禁欲的な性質が強かったのに対して、コンドームやペッサリーなどの避妊器具は膣内での射精を可能にした。性行為の主導権を握ることの多かった当時の男性たちにとってはより現実的な選択肢となるとともに、女性たちが主体的に避妊を行なうことも選べるようになった。第二に、公の場で行なわれた避妊の是非をめぐる議論は、全国的な規模で行なわれることによって賛成するものだけでなく反対するものも意図せずその普及に加担することになった。なぜならば、大勢の注目を集めること自体がそもそも避妊という選択肢があることを知らなかった人々にアクセスのきっかけを与えたためである。第三に、性や生殖に関する価値観の変容があった。なかでも大きな意味を持っていたのは、生殖が神秘的なものから科学的にコントロールすることのできる対象となり、自己管理の一環として避妊が実践されるようになったことである。そして第四に、違法とされる性交渉を隠匿する目的で用いられることもあったほど、避妊をする/しないという選択の結果が当事者以外からは見えにくいものだった。一度避妊に関する知識や技術を習得した人をあとから取り締まる、ないし「改心」させる手立てはごく限られていた。
これら4つの現象は上の順序通りに進行したわけではない。各種避妊法と性や生殖の価値観の関係は需要と供給の関係にあったと言うこともできるが、両者の関係は一方的なものではなかった。需要が供給を、供給が需要を生むことによって、相互に影響を与えながら時代とともに変化してきた。一般的な医薬品の場合には、具体的な化合物と適切な処方の両方がそろって初めて価値を持つ商品となるが、避妊が普及するためにはそのような技術的な進歩だけでなく、生殖に対する価値観の変容も不可欠だった。また、ある時代にたったひとつの価値観が共有されていたということはなく、一個人のなかでも矛盾しあう判断がせめぎあっていた。そのなかから当事者たちが各々の利害関心に応じて選択を行なう際にやはり重要だったのは、4つ目に挙げた選択のプライバシーがある程度確保されていたことである。選択の自由が確保されるためには、それを選択する権利があるのみでなく、選択結果次第で第三者からの不当な不利益を被る恐れがすくないことが欠かせなかった。
次に、避妊と中絶をとりまく状況が今日のように分岐したのはプライバシーの有無だけでなく、3つ目に挙げた自己管理としての位置づけも大いに関係がありそうだ。中絶は妊娠という事実に直面してからはじめて対処するものであるのに対して、避妊は予防的手段である。つまり、避妊は妊娠を予防するものであると同時に、特に結婚を前提としていない男女など出産を全く想定していない場合には、中絶というリスクをも予防するものである。したがって、中絶が大きな問題とされればされるほど、避妊には相対的に「反対されにくい」コンテクストが用意されることになる。逆にこうした両者の関係に変化が訪れれば、避妊をめぐる論争は必ず再燃するはずだ。将来的に新しい避妊の技術が登場することは容易に想像できる。例えばモーニング・アフター・ピルの確実性が増し、かつ副作用がほとんどなくなればいま以上に多くの女性たちによって利用されるだろう。そうなれば、予防的手段としての避妊技術全般と中絶との差異は一段とあいまいなものとなり、「避妊は認めるが中絶は認めない」と考えているグループに改めて避妊について考える機会をもたらすことになる。
最後に、20世紀前半の人々が避妊という選択肢に反対しなかったことが現代の当事者たちにもたらした自由の性質について考察し、結びとしたい。避妊を実践することが半ば前提とされるようになると、避妊に失敗することは妊娠だけでなく、自己管理の失敗も意味することとなった。そこで問題となるのは、妊娠やピルなどの一部の避妊法を採用した際に予想される副作用のリスクは女性たちの身にのみ降りかかることだ。また、たとえどれだけ注意深く避妊を実践していたとしても、性交渉を持ったならば妊娠の可能性はゼロではない。つまり、避妊に失敗して中絶に頼らざるを得ない女性たちは必然的に出てくるのである。ところがそうした「運の悪かった」人々は、避妊が社会的に受け入れられ、かつそれが簡単で当然なことと見なされれば見なされるほど、周囲の同情を受けにくい状況に立たされることになる。避妊についての知識がなく多産多死があたりまえだった時代には、将来何人の子どもたちに恵まれるかは「神のみぞ知る」ことだったが、現代においても中絶の当事者になるかならないかの境界は人間には計り知ることのできない領域にある。避妊の実践者と中絶の当事者の一部を隔てるものはただ偶然のみであるとしても、後者の数が圧倒的に少ないため、また前者は避妊による自己管理を自負しているため、潜在的当事者としての自覚は薄いと考えられる。ここに不完全な避妊に対する過度の期待、盲信とも呼べる危うさがある。いまとなっては反対しないことはあまりに簡単だが、反対する余地は十分に残されている。
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