2007年11月10日土曜日
「人権」と比べて、「人命」という言葉は...
「アメリカ合衆国における避妊の普及」
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序論
「人権」と比べて、「人命」という言葉はよほど具体的で形あるもののように響く。ところが、ある対象を指してそれが命ある人間であるかどうかを決める基準は本質的なものではなく、ただ社会によって保障されているに過ぎない。例えば、アメリカ合衆国では1865年に憲法修正第13条が成立するまで、黒人奴隷は白人所有者の財産と見なされていた。そのため所有者から虐待を受けたとしても、厳密には殺人や強姦といった概念の成立しない時代があった。1
現代においても、特に医療の分野で命の境界についての議論が絶えない。20世紀後半には生命維持装置や免疫抑制薬の発達により、脳の機能が完全に停止している患者から臓器を摘出して移植手術を行なうことが技術的に可能となった。ニューヨーク州最高裁判所は1984年の時点で脳死患者からの臓器移植を合法とする判決を下し、同州は3年後に心肺機能の停止だけでなく、脳機能の完全停止を人の死の十分条件に加えている。2
命の終わりだけでなく、始まりについても同様のことが生命工学の分野で起きているが、より多くの人々に関わりのある問題としては人工妊娠中絶(以下、中絶)が挙げられる。1973年に合衆国最高裁判所が下したロー・ウェイド判決(Roe v. Wade)によって一時は制度上の決着をみたように思えたが、後に勝訴した「ジェーン・ロー(本名Norma Leah McCorvey)」本人がプロ・チョイス派からプロ・ライフ派に立場を変えて裁判を起こしまでした。3 また、大統領選挙があるたびに民主・共和両党の候補者が中絶論争における自らの立場を表明し、大勢の有権者たちの関心を集めている。4 さらに2005年2月には、サウスダコタ州の議会で母体の生命に関わる状況を除いていかなる中絶手術も禁ずる法律が可決された。レイプや近親相姦による妊娠であっても中絶を認めないという厳しい内容だったが、翌月には州知事マイク・ラウンズ(Mike Rounds)によって承認されている。5 このような議論が繰り返し行なわれていることからも、いかに「人命」の定義が危ういものであるかがわかる。
中絶(abortion)にいたる前段階としての避妊(contraception)も同じ産児制限(birth control)という言葉でくくられる。中絶をめぐる議論がいまなお紛糾しているのに対して、避妊の必要性については現代アメリカ社会の中でおおよそのコンセンサスが形成されている。しかし、過去には避妊器具の輸送や避妊に関わる情報が猥褻物を取り締まる法律によって規制され、州によっては夫婦であっても避妊を実践することが認められない時期が20世紀中ごろまで続いた。したがって、避妊の是非についての論争も決して前世紀の問題だけではなく、将来的に再燃する可能性を秘めているのではないだろうか。
本稿の一番の目的は20世紀前半のアメリカ合衆国において、なぜ避妊が普及したのかを明らかにすることである。バース・コントロール運動は女性参政権成立を目指す、いわゆる第一波フェミニズム運動と時期を同じくしていることもあり、先行研究が豊富にそろっている。6 まず、第1章では先行研究や統計をもとにこの現象をとらえるための前提事項を整理したい。続いて第2章では避妊に「反対しなければならなかった」コンテクストを分析し、逆に第3章では避妊に「反対しなかった」コンテクストを分析する。なお、後半の2つの章では立ち位置によって「第三者によるもの」と「当事者によるもの」を区別して分析を行なっていく。一連の作業を通して、避妊の必要性がほとんど自明視されている現状が変化する契機となりうるものも浮き彫りになるはずだ。
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1 鈴木透『性と暴力のアメリカ―理念先行国家の矛盾と苦悶』 東京: 中公新書, 2006年, 41-42
2 “Failure of Brain Is Legal ‘Death,’ New York Says,” New York Times, June 19, 1987
3 “New Twist for a Landmark Case: Roe v. Wade Becomes Roe v. Roe,” New York Times, August 12, 1995
4 2004年の大統領選挙では共和党のブッシュ(George W. Bush)現大統領が中絶に反対する姿勢を見せた。
5 “South Dakota’s Governor Says He Favors Abortion Ban Bill,” New York Times, February 25, 2006
6 渡辺和子 編『アメリカ研究とジェンダー』 東京: 世界思想社, 1997年より、栗原涼子「女性史 第一波フェミニズムをめぐる女性運動史」, 2-21
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