2007年11月30日金曜日

第三者がたとえどのような働きかけを行なったとしても...



「アメリカ合衆国における避妊の普及」
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第2節 当事者として

第三者がたとえどのような働きかけを行なったとしても、避妊という行為の性質上、最終的にそれが実践されるか、されないかは性交を行なう当事者たちにかかっていた。ここからは当事者を避妊から遠ざけ、あるいは躊躇させたコンテクストを分析していきたい。

戸惑い

1941年、ジョサイア(Josiah B.)は「私の家に悪魔がやってきて、私の最も弱い部分を誘惑した」と会衆の前で証をした。「悪魔(evil)」と呼ばれたのは公衆衛生看護婦ラナ・ヒラルド(Lana Hillard)で、彼女は妊娠可能年齢にあるすべての女性に対してコンドームや殺精子剤を提供するため、ノースカロライナ州西部のワトーガ郡を回っていた。ジョサイアは自身の避妊に対する道徳的な反発と看護婦の申し出を受けようとする妻との間で揺れ、教会に霊的な支えを求めたのである。結果としてジョサイアは妻の求めに不本意ながら応じることになった。 34

以上はコンドームと殺精子剤の有効性を調査した記録に残されているものであり、貧しい男性の声として貴重なものである。「悪魔」という言葉が用いられていることが目を引く。教会の教えに反するもの、性的な事柄に直接言及することを回避する手段として、このような喩えが使われたと推察される。夫たちは、特に貧しい者ほど無力な姿で描かれていることが多い。家庭や性の営みおける主導権など便宜的なものでしかなく、むしろ夫たちはそれがくびきになっているように記述されるのも特徴だ。ノースカロライナ州ではこの時期すでに夫婦間での避妊が認められていたが、それでもジョサイアは避妊をすんなり受け入れることはできなかった。このことから、反対しなければならないコンテクストには、ときに法的制約に勝る道徳意識を加えざるをえないだろう。

男女のセクシュアリティ

荻野美穂によれば、労働者階級では大勢の子どもがいることが男らしさの証明と結びつけられる傾向があった。35 また、ヘイグッドがインタビューを行なった1930年代の南部白人小作農の母親たちも「やり遂げたことが1つある、子どもたちを育てたんだ」といった調子で、子どもたちを育てあげた経験を自信と喜びをもって語っている。36 データのそろっている115人の母親たちは平均18.6歳で結婚し、1年に0.37人という驚異的なペースで子どもを産み続けていた。37 これは単純計算に基づくものなので、若い母親たちの場合にはその周期がさらに短かったと言う。

1905年にルーズベルトが演説のなかで提示した「第一の義務」を思い起こすと、彼女たちは最も忠実で模範的な女性たちだったと言えるのかもしれないが、彼女たちの誇りの源を知るためには、当時の小作農一家における女性や子どもたちの位置づけが中産階級と大きく異なることを指摘しておく必要がある。確かに母親たちは出産と子育てを変わり手のいない、自身にとって最も大きな責任と感じていたが、多くの場合は夫が家族全員分のパンの稼ぎ手だった中産階級とは異なり、女性や幼い子どもたちも畑仕事のための貴重な労働力とされていた。「あたしが結婚したとき、パパは自分の右腕を失ったって言ったものよ」というコメントににじみ出ているように、母親たちは家事も畑仕事も精力的にこなし、なかには男勝りに働いてそれを誇りとする者もいた。38 このような環境においては、自分がこれまでに産み育てた子どもの数は家族に対する貢献を表す、具体的で分かりやすい尺度だったのではないだろうか。そのように考えれば、インタビュアーには1人しか子どもがいないことを知った、産婆としての経験も長いある母親が、「それじゃあ、あんたは赤ん坊を産むことについてなんにも知らないわけだ―いいからあたしの言うことを聞くんだね」と自信をのぞかせたことにもうなずける。39

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34 Schoen, Joanna. Choice & Coercion: Birth Control, Sterilization, and Abortion in Public Health and Welfare, Chapel Hill: University of North Carolina Press, 2005, 21-23
35 荻野『生殖の政治学』, 39
36 “There’s one thing I have done, I have raised my children.” Hagood, 155
37 Ibid., 109
38 “My papa said he lost his best hand when I got married.” Ibid., 89
39 Ibid., 111

「アメリカ合衆国における避妊の普及」
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2007年11月29日木曜日

バース・コントロール運動にとって...



「アメリカ合衆国における避妊の普及」
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道徳意識

バース・コントロール運動にとって制度上の障壁となった最たるものは1873年3月3日に議会で可決されたコムストック法(Comstock Law)と呼ばれる連邦法だった。この法律は避妊によって生殖が抑制されることではなく、生殖を目的としない性行為に反対するものであるため道徳意識にカテゴライズされるが、社会的秩序を守ろうとした人々にとっても便利なものであったことは想像に難くない。コムストック法の条文にはすべての「猥褻で、淫らで、好色な(obscene, lewd, or lascivious)」品物の郵送を禁ずるとあり、このなかには受胎を妨げ、あるいは堕胎をうながすことに関わる記事や物品が含まれていた。25 法律を成立に導いたアンソニー・コムストック(Anthony Comstock)本人の言として「六両編成の客車一杯の人間を性的不品行で有罪にし、何百トンものわいせつ物を破棄した」とあり、彼がいかに意欲的だったかがわかる。26

その一方で、亀井俊介はコムストック法が産児制限のための情報や文学作品における性的描写を厳しく取り締まる一方で、同時期に売春が全盛を迎えていたことを指摘している。27 亀井によれば、植民期から姦通を取り締まる法律はあり、特に女性が重点的に取り締まられたが、売春を取り締まる法律は第一次世界大戦にアメリカが参戦する頃まではなかった。28 さらに、売春を事実上黙認することは男性の性欲から家庭にいる貞節な妻を守るだけでなく、売春婦を取り締まらずに虐げることによって相対的に貞節な女性たちの尊厳を高める、二重の意味で堤としての機能を持つと考えられていた。29 ここでも男性の性的欲望は不可避なものとしてとらえられ、女性の価値を二極化することによって、彼女たちの行動を制限しようとしていることが伺える。「避妊は売春婦が横行することにつながる」と彼らが言うとき、それは「避妊を行なう女性は売春婦と見なす」ことを暗に意味していたのである。こうした思考はルーズベルトの演説に通ずるものがあると言えるだろう。要するに、コムストック法は厳しい法律である一方で、取り締まる対象にははっきりと恣意性が認められる。そのため、確かにこの法律は郵便物の検閲やクリニックを取り締まることによって避妊の拡大を抑制することができたが、一度避妊を猥褻なものとしてではなく、便利なものとして受け入れた当事者たちを「改心」させる力はほとんど持っていなかったと考えられる。

「改心」を促す力があるとすれば、それはユダヤ教やキリスト教などの宗教の存在であろう。なぜならば、コムストック法は人の目による取り締まりであるため、工夫次第でやり過ごすことができたが、信仰を持つものにとって神の目は欺くことはできないからだ。ユダヤ教やキリスト教において性行為が認められるのは生殖を目的として行なわれるときのみであるとされていた。その根拠とされたのが旧約聖書38章6節から10節に見られる記述である。
ユダは長男のエルに、タマルという嫁を迎えたが、ユダの長男エルは主の意に反したので、主は彼を殺された。ユダはオナンに言った。「兄嫁のところに入り、兄弟の義務を果たし、兄のために子孫をのこしなさい。」オナンはその子孫が自分のものとならないのを知っていたので、兄に子孫を与えないように、兄嫁のところに入る度に子種を地面に流した。彼のしたことは主の意に反することであったので、彼もまた殺された。 30
ここで、オナンが「子種を地面に流した」ことが膣外射精を意味すると考えられた。さらに、13世紀にトマス・アクィナス(Thomas Aquinas)が婚姻関係にある男女による、生殖を目的とした場合に限って性交が認められるとしたことによって、この箇所の解釈が固定した。31 しかし、エドマンド・モーガン(Edmund S. Morgan)によれば、アメリカのピューリタニズムにおいて性交は人間本来の欲望として認められていた。すなわち「ピューリタニズム」という言葉から連想されるような完全な禁欲を説いたのではなく、主に婚外交渉を厳しく禁じたのであり、夫婦間での性交に設けられていた唯一の制約は、それが信仰生活を妨げない範囲で行なわれることだった。32 このように、ピューリタニズムの伝統的な道徳意識は男女が夫婦となること積極的に肯定するものだったが、このことが社会的秩序にもたらす恩恵にはどのようなものが考えられるだろうか。

結婚は誰もが自分の思うようにできるわけではなく、必ず相手を必要とする。そして、多くの場合には相手や相手の家族からはさまざまな条件を満たすことを要求される。年齢もそのひとつである。文化の違いや個人差はあるものの、結婚するべき年齢の幅についてはある程度の合意がある。他には自立するのに必要なだけの経済力が求められることが多いだろう。また、それ以外でも社会的地位が確立されていれば、多くの場合は有利に作用する。これらの条件を満たした先に結婚があり、かつ生殖が夫婦間のみにおいて認められるかぎり、結婚は生殖の資格を持つべきものと持つべきでないものをふるいにかけるシステムと捉えることができる。

なお、避妊について最も頑なだったのがローマ・カトリック教会だった。カトリックの神父や修道女たちは生涯独身を通すので、原則として性行為や避妊の当事者とは成りえない特異な存在だったことをまずは指摘できる。しかしおそらくそれ以上に重要だったのが、全世界のカトリック教会が一致して歩むという基本姿勢だった。自らを正統と自負する権威は「変わらないこと」によって保障されるものであったため、必然的に避妊に反対しなければならないコンテクストができあがった。結果論になるが、この頑なさは避妊が普及するにしたがってアメリカ人に神ではなく人による技術を信じる機会を与え、社会における影響力を弱めることになった。1930年代の新聞には苦肉の策として、避妊は肉体的健康を損なうという主張が掲載されることもあった。33

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25 “The Secret History of Birth Control,” New York Times, July 22, 2001
26 荻野美穂『生殖の政治学―フェミニズムとバースコントロール』東京: 山川出版社, 1994年, 50
27 亀井俊介『ピューリタンの末裔たち―アメリカの文化と性』東京: 研究社, 1987年, 106
28 Ibid., 112
29 Ibid., 108-109
30 『新共同訳聖書』東京: 日本聖書協会, 1999
31 Gordon, 7
32 カール・N.デグラーほか著. 立原宏要, 鈴木洋子訳『アメリカのおんなたち:愛と性と家族の歴史』東村山: 教育社, 1986年より、エドマンド・S.モーガン. 鈴木洋子訳「ピューリタンとセックス―厳しいモラル、だが現実には寛容」, 202-203
33 “How the Churches View Birth Control: Father Cox Quotes from the Records To Show their Expressed Opposition to It,” New York Times, January 14, 1934

「アメリカ合衆国における避妊の普及」
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2007年11月28日水曜日

個人の生き方に国家などの第三者が...



「アメリカ合衆国における避妊の普及」
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第2章 避妊に反対しなければならなかったコンテクスト

分析を行なうにあたって、特に第三者と当事者が置かれたコンテクストの相違点を意識し、第三者による言説がどれほど当事者の利害関心にかなっていたのかに注意したい。

第1節 第三者として

個人の生き方に国家などの第三者が介入することを正当化するためにしばしば使われたのが社会的秩序(social order)と道徳意識(morality)いう言葉だった。その際争点となるのは、誰にとっての社会秩序、道徳意識なのかということである。

社会的秩序

1905年3月13日、当時の合衆国大統領セオドア・ルーズベルト(Theodore Roosevelt)は「アメリカの母性について」という演説を行なった。22 大統領はこのなかで、「この世の終わりまで変わることのない真理」として、妻と夫が果たすべき義務について説明している。23 夫の第一の義務が一家の稼ぎ手となることであるのに対して、妻の第一の義務は良き妻・主婦・母親となることとされた。この違いについては、男女はもともと違う(normally different)のだから、それぞれの負う義務が異なるのも当然であり、それが「両者の不平等を意味するのではない」と断言している。さらに、「全体として、両者のうち女性の義務のほうがより重要で、難しく、尊いものであると私は考える。全体として、義務を全うする男性よりも、義務を全うする女性に対して私は敬意を表する」と続けている。

ルーズベルトがこのようなレトリックを用いた理由は演説の後半における「第一の義務」を全うしようとしない女性たちに向けられた強い非難から明らかになる。女性の第一の義務として母親となることが含まれている以上、とりわけ妻でありながら子どもを持たないことは人種に対する犯罪だとされ、ひいては人種の自殺(race suicide)につながるとまで主張している。

ルーズベルトの演説が行なわれた背景には19世紀末から白人中産階級の出生率が急速に低下していたことに対する危機感があった。24 また、いわゆる新移民の増加も相対的に白人中産階級の人口を脅かした。社会的秩序を維持するための人口が相対的に減少することは国内政治における力関係に影響を及ぼしたが、アメリカ人全体の人口の伸びなやむことは国際社会にてらしたアメリカの国力を左右する問題とされた。いずれの場合においても争点となったのは人口であり、したがってこうしたコンテクストが避妊と衝突するのは、避妊が生殖を抑制するものだったために尽きる。ここで、性と生殖の関係について整理してみよう。

効果的に避妊が実践されている状況においては性行為と生殖は必ずしも直結せず、性行為自体を目的とした性(sex)と、行為の結果としてもたらされる生殖(reproduction)とに分けて考えることができる。もちろん、姦淫や強姦などの性的逸脱や暴力は古くからあったはずで、それらが自らの子孫を残すことを目的としたものだったとは考えにくい。また、妊娠のメカニズムについての知識がほとんどない状況では、性行為がどれほど生殖を意識して行なわれていたかも疑わしい。しかし、効果的な避妊技術が生殖をコントロールするための試行錯誤を通して生れ、かつ後者をある程度コントロールすることができるようになると、前者の快楽のみを追求することが可能となった。したがって、避妊に反対しなければならなかったコンテクストは「生殖そのものが抑制されること」が問題とされる場合と、「生殖を目的としない性交が行なわれること」を問題とする場合を分けて考えなければならない。人口にまつわる社会的秩序という大義名分がかざされるときには、手段として後者について言及することはあるにしても、目的はあくまで生殖そのものが抑制されている事態を打開することにあった。

さて、この演説は全国母親協議会(National Congress of Mothers)、いわゆるPTA(Parent-Teacher Association)の前身となる組織を前に行なわれたので、聞き手はまさに白人中産階級の母親たちだった。つまり、「アメリカの母性について」と銘打たれているものの、実質的には白人中産階級の母親たちに向けられたものであり、このことはルーズベルトの言う社会秩序がどの集団に依拠しているかを如実に表している。このように巧みなレトリックとチャールズ・ダーウィン(Charles Darwin)の自然淘汰説を下敷きにした「科学的な」説明によってルーズベルトは母親たちに訴えたのだった。しかし、強い国民によって強い国家ができあがるという発想は保守的な制度や慣習、すなわち白人中産階級という集団の優秀さや「第一の義務」を果たす母親たちの価値を自明視するとともに、義務や責任を構成員である個人に帰する厳しさを併せ持っていた。

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22 Roosevelt, Theodore. "On American Motherhood," March 13, 1905
23 “truths which will be true as long as this world endures”
24 有賀夏紀『アメリカ・フェミニズムの社会史』東京: 勁草社, 1988年, 134-135

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2007年11月27日火曜日

最も古くからある避妊法は...




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避妊技術の発達

今度は、年表的事項やグラフの情報に具体的な避妊技術の発展を加えてみよう。最も古くからある避妊法は、現代からすれば儀式や呪術としか呼べないようなしろものである。しかし、効果が本当に信じられていたならば、それらが女性の心身に何らかの影響を及ぼして妊娠を妨げた可能性を完全に拭い去ることはできない。全く効果がなかったとは言い切れない以上、儀式や呪術も避妊の一種と呼ぶことができるとするゴードンの指摘には筆者も同意する。16 後ほど詳述するが、現代においても100%確実な方法がない以上、避妊を実践することは避妊の確実性を信じることと強く結びついているのではないだろうか。17

それでは、近代的な避妊法にはどのようなものがあったのだろうか。妊娠のメカニズムが科学的に解明される以前から、男性の精液と妊娠の関係が経験的に理解された時点で、その侵入を防ぐさまざまな方法が考えられた。例えば、男性が射精せずに性交を終える抑制性交(male continence)や、膣外で射精をする中絶性交(coitus interruptus)は特別な器具を必要とせず効果も比較的高かったが、その分知識と男性の自制が要求された。18 同様に禁欲的性質の強いものとして周期法が挙げられる。しかし、ヒトの排卵周期が正確に特定できるようになったのは1924年のことであり、また周期の安定しない女性も多く、他の方法との併用なしでは失敗することが多かった。器具を用いる場合であっても日用品を転用できる場合にはコストがほとんどかからず、すぐに実践することができた。綿花などをタンポンとして膣内に詰めて性交後に抜き取る方法は1930年ごろまでクリニックで教えられ、なかでも吸収性に富むスポンジが使われることが多かった。19 専用の避妊器具となると、適切に使いさえすれば効果はある程度保証されていたものの、それを購入することがひとつのハードルになった。特に貨幣経済が成熟していない地域ではアクセスするのが難かったと考えられる。20 早くから登場したのは、性交直後に膣内に挿入し、精液を洗い流すための洗浄器だったが、雑誌などを通して大々的に宣伝されたわりには効果はいまひとつだった。より確実なものとしては、ゼリー状の殺精子剤がペッサリーとともに利用された。これらは女性が主体的に使うこのできる避妊器具だった。

男性用コンドームはもともと避妊のためではなく、性感染症予防のために考案されたものである。そのため、男性の性交中の快感が若干損なわれるという欠点があり、このことがしばらくの間普及を阻む一因となっていた。しかし第一次世界大戦後に材質がゴムからラテックスに切り替えられることによってはるかに薄くなり、単価も下がったため急速に広まった。21 このように、1960年代以降に経口避妊薬ピルが登場するまでの避妊器具は、精子の侵入を防ぐという目的をいかに便利な手段によって果たすことができるかを模索することによって生み出された。注目すべきは、それぞれの避妊技術が純粋に避妊効果の大小だけでなく、コストや性交時のデメリット、避妊の主体が男女のどちらにあるかなどから総合的にみた便利さに応じて選択され、避妊器具を供給する側も、そうした需要に応えられるように研究開発を行なったことである。

以上に挙げた効果的な避妊器具が全国的に普及しはじめたのも20世紀前半だった。つまり、避妊がアメリカ合衆国に普及する条件のうち、性や生殖の価値観に沿った技術的革新はこの時代において認めることができる。出生率の推移とあわせてみても、大きな流れとしては避妊が普及する方向へ動いていたと考えてよいだろう。避妊が普及するためには性交を行なう当事者がそれを選択することが必須条件だったが、そのときに求められるのは避妊に反対しないことであり、避妊を積極的に普及させるために他者に働きかけることまでは含まれない。また、そのような流れができつつあるなかで、あえてそれに抗わなければならなかったコンテクストにはどんなものがあったのか、興味がわいてくる。

章のまとめ

このように、「誰が避妊を普及させたのか」という問いの立て方は複数の問題を抱えている。まず、第三者だけでなく性交を行なう当事者の利害関心に注目する必要があるが、そうしたコメントは往々にして聞き手や語り手、書き手の限界から特殊なものと位置づけられる。そのため、特に当事者としての個人によってなされた発言については語り手だけでなく、聞き手や書き手の性質や立場についても分析の対象とする必要があるだろう。また、「誰」を特定することは原理的に難しく、変化を追うのであれば個人も変化しうるものとして捉える必要がある。そこで、本稿は人ではなくコンテクストによって資料を整理する。
次に、いくつかの年表的事項や人口動態、避妊技術の発達を並べてみると、避妊が全国的に議論され、また普及を決定づけた転換期は20世紀前半だったと言える。この時代に避妊が普及するためには当事者がそれを選択することが必須条件だったが、「普及させる」という自覚を持っていたのは一部の人々に限られていたと考えられる。つまり、そのころの当事者たちにとっては避妊に反対しないで受け入れていくことよりも避妊に反対することのほうが大きなエネルギーを要したのではないだろうか。現段階においては仮説に過ぎないが、ひとまずこの仮説に従ってコンテクストを分類してみたい。

続く第2章および第3章ではこれまでの議論を前提とし、資料から集めた具体的な事例を歴史的背景と照合しながら解釈を加えることによって、どのようなコンテクストが重なり合い、結果として普及する結果となったのかを明らかにしていきたい。その際、先に述べた理由から、コメントがなされた状況に即して第三者としてのものと当事者としてなされたものとを区別する。

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16 Gordon, 29-30
17 確実な避妊法がひとつだけあるとしたら、それは禁欲を貫くことだが、禁欲そのものに失敗する可能性はある。
18 Frieze, Irene H. Woman and Sex Roles: A Social Psychological Perspective, New York: W. W. Norton and Company, 1978, 210-233
19 Gordon, 44
20 2章2節を参照。
21 Gordon, 64

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2007年11月26日月曜日

産児制限という習慣は...



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第2節 普及と抑圧

リンダ・ゴードン(Linda Gordon)によれば、産児制限という習慣は古代からさまざまな文化圏において広く認められるものだ。8 その一方で、個人による産児制限の試みをコミュニティが抑制する伝統も古い。9 それでは、避妊を普及させようとする力とそれを抑圧しようとする力の衝突が合衆国レベルに発展したのはいつごろなのだろうか。
まずは年表的事項をいくつか挙げることからはじめてみよう。当局が避妊を取り締まる法的根拠としたコムストック法が議会で可決されたのは1873年。「バース・コントロール」という用語がマーガレット・サンガー(Margaret Sanger)によって発明されたのは1915年のことだ。10 また、1916年10月16日にはサンガーによる最初のクリニックがニューヨークのブルックリンで開業している。11 避妊の普及と大きく関わる第一次世界大戦への参戦が決まったのが1917年4月。そして、避妊についてコムストック法を適用することが違憲とされたのは1936年のことだ。こうして列挙してみると、避妊が全国的な問題とされたのは20世紀前半と見てよいだろう。20世紀前半という時代を意識しつつ、続いて出生率や避妊技術の移り変わりをみてみたい。

人口統計の推移

人口統計に見られる変化から産児制限の広まりを捉えることはできないだろうか。1800年から2000年までのアメリカ合衆国における合計出生率は下のグラフの通りに推移している。12


図 1. アメリカ合衆国における合計出生率13


まず目を引くのは19世紀前半から第2次世界大戦期まで、出生率が人種に関わらず下降の一途をたどっていることである。すなわち、避妊の是非が公の場で論じられようになる以前からすでに出生率の低下は進行しており、何らかの抑制が働いていたことが読み取れる。図1は人種による出生率の差を示しているが、アメリカに関する統計を扱う際には地域による差も忘れてはならない。例えば、1940年に白人女性の合計出生率は2.22で底を打っているが、1930年代の南部白人小作農を対象としたヘイグッドの調査結果は6.4という3倍近い値をはじき出している。14 この数字は合衆国平均から見ればおよそ100年前の水準ということになるが、子どもが7人以上いた家庭が全体の2/3を占め、10人を超える場合も少なくなかったということから、その地域においてはむしろ自然なことだったことが分かる。したがって、子どもの数は2人か3人というほぼ均一な状態が全国的にあったわけではなく、都市部と非都市部ではかなり大きな開きがあったと考えられる。次に、都市部と非都市部を比較するため、居住地域別に見た20歳~44歳までの女性1,000人当りの5歳以下の子どもの数の変化を見てみよう。


図 2. 居住地域別に見た20歳~44歳までの女性1,000人当りの5歳以下の子どもの数15


2つのグラフから人種や居住地域による差は明白であるが、現代に近づくにしたがって徐々にその差が縮まっていることも見て取れる。このような傾向は、アメリカ人が人種や居住地域の差に左右されることなく、標準的な子どもの数として近い数字を思い描きながら計画的に家族を形成しつつあることを表しているのではないだろうか。

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8 Gordon, Linda. Woman’s Body, Woman’s Right: A Social History of Birth Control in America (Revised and Updated), New York: Penguin Books, 1990, 26
9 Ibid., 4
10 Ibid., 206
11 Ibid., 231
12 合計出生率(total fertility rate)は特定の時期に生きた1人の女性が生涯に産む子どもの合計数の平均より算出される。
13 グラフは“Fertility and Mortality in the United States,” EH. Net Encyclopediaの表より一部のデータを抜粋して作成した。
14 Hagood, 109
15 グラフはアメリカ合衆国商務省 編『アメリカ歴史統計・第Ⅰ巻(新装版)』東京: 東洋書林, 1999年, 54の「人種・民族、居住地域および知り上の区域別に見た20歳~44歳までの女子1,000人当りの5歳以下の子供数:1800-1970」という表より、一部のデータを抜粋して作成した。

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2007年11月25日日曜日

これまでのアメリカ合衆国における避妊の歴史は...



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第1章 「誰」が避妊を「普及させた」のか

第1節 不在の存在

これまでのアメリカ合衆国における避妊の歴史は、「誰が避妊を普及させたのか」という問いから出発し、「政治家や医師、聖職者などの男性エリート層と、自らの身体をコントロールする権利を獲得しようとする女性たちを中心とした運動家の闘い」という枠組みのなかで語られることが多かった。その一方で、当事者であるはずの個人が避妊の普及に対してどのように貢献したかについての議論は必ずしも十分にされていないようだ。確かに避妊について啓蒙するパンフレットの発行部数やクリニックの利用者数を見ると、運動家たちの活動は非常に大きな成果を収めている。しかし、避妊をとりまく状況が時代とともに変化するなかで、最終的に避妊をする/しないという判断を下してきたのは一貫して当事者、すなわち個人だったはずだ。そのため、制度上の変化や運動家たちの活動を追うことと、今日のように避妊はむしろ必要なことであるという価値観がおおよそ共有されるに至った経緯を説明することの間には、やはり隔たりがあると考えられる。

ただし、当事者である個人を研究対象とすることにはいくつかの障害がある。まず、当事者としての個人、とりわけ男性が避妊についてコメントした記録が極端に少ないことが挙げられる。なぜこのようなことが起こるのだろうか。これからしばらくの間、不在が存在していることの意味について考えてみたい。原因として考えられるのは、聞き手が語り手を促さなかったこと、語り手が発話しなかったこと、そして書き手が記録に残さなかったことの3つである。

聞き手の問題

社会学者マーガレット・ヘイグッド(Margaret Jarman Hagood)は1930年代にノースカロライナ州のピードモント地域やジョージア州、アラバマ州の白人小作農を訪ねてまわった。254世帯を対象とし、16ヶ月間に及んだインタビューの記録は『南部の母親たち』という著作にまとめられている。7 当時の南部小作農の日常生活を知るための資料として優れているが、夫の記述に関しては不在が目立つ。例えば本書の第2部では出産や育児についてかなりのページが割かれているが、これらのことに関してヘイグッドが夫たちに直接インタビューを行なった形跡は見られない。妻に対して投げかけた質問に対して、妻が夫に確認をとる様子はときおり描かれていることから、インタビューの際に夫がそばにいたこともあったようだ。それにも関わらず夫のコメントが残されていないのは、彼女の研究テーマが母親たちに焦点を絞ったものであったためだけではなさそうだ。聞き手のヘイグッドにも、出産や子育てが父親ではなく母親の役割であるという先入観があったと考えざるをえない。

語り手の問題

筆者も本稿執筆にあたり、「避妊について、自身はどう考えるのか」という質問を受けることが少なくなかった。そのたびに「私自身がどう考えるかと、20世紀前半のアメリカ人がどのように考えたかは区別する必要がありますが」と断った上で、私なりに誠意を持って答えるように努めた。ところがあとになって振り返ってみると、質問を投げかけた相手との関係や周りの状況などによって私の答えは少しずつ違っていた。趣旨は同じであったとしても、用いる言葉はその都度違い、また表情や身振りによって聞き手に異なる印象を与えたと考えられる。羞恥心がまったくなかったと言えば嘘になる。一対一で話をする場合と、複数名の前で答える場合とでは羞恥心からくるストレスの度合いが異なった。さらに相手の年齢や性別、社会的地位、そして何よりも信頼関係が大きく影響した。現代においても性的な事柄について語ることに対する抑圧は強いが、20世紀前半でははるかに強かったことを踏まえ、特にこのことを意識する必要がある。

また、あるとき私が避妊について肯定的な姿勢を示したところ、「それでは将来あなたが父親になったとする。そのとき自分の娘、それも未婚の娘が避妊を実践することについてはどのように考えるか」と追及されたことがあった。これは当事者として答える場合と、父親としての返答が異なることを暗に期待する問いかけだった。確かに筆者自身の個人的な体験は当時のアメリカ人がどのように考えたかとは無関係かもしれないが、自らが性行為の当事者としてコメントする場合と、第三者として意見を述べる場合とでは回答の変わる可能性があるという発想は分析を行なっていく上での手がかりとなった。

書き手の問題

通常は聞かれることも語られることもまずなさそうな一個人の発言が、「奇跡的に」残されているとしたら、それは何を意味しているのだろうか。ひとつにはそのコメントが書き手の意図に沿う何らかの特質を有していたと推察できる。あるいはそれ以外のコメントを代表しうる典型的なものであったと考えることもできる。前者はもちろんのこと後者の場合においても、均質なものが多数あったなかから無作為に選ばれたというよりは、言及されない他の要素を代表しうる性質を持ち合わせていたからこそ、意図的に選ばれたと考えたほうが理にかなっている。だからと言って、残されている記録を特殊なものとして捉えることは、必ずしも資料に対して悲観的に向き合うことを意味しない。書き手にとっての必然性に目を向けることができれば、ときにはテクストとして残されているもの以上のことを推測できるはずだ。

「誰」からコンテクストへ

個人を研究対象に含める際に問題となるのは、資料と実態との避けがたい不一致だけではない。仮にある男女が避妊を選択したとして、この場合、誰が避妊の普及に貢献したと言うのが最も適当なのだろうか。20世紀前半のアメリカ合衆国では、だいたいにおいて男性が性行為の主導権を握っていた。当事者に限定したとしても、決定権を握っていた男性の意志や協力の重要性を指摘することができる一方で、男性を説得することに成功した女性の発言権の増大に注目することもできる。どちらもそれなりの説得力を持っているが、どちらも決定的ではない。さらに第三者の働きかけを加味すると、当事者たちが避妊にアクセスする遠因となったであろう運動家たちの働きも無視できなくなる。このように、もし「誰が」を特定することが原理的に不可能であるならば、「誰が」という問いの立てかた自体に問題があることになる。

さらに言えば、生まれながらにして妊娠について知っている人がいないのと同様に、生まれながらにして避妊を受け入れている人もいない。それらのことは人生のある段階において対面するものであり、そのときには葛藤の程度に関わらず、個人のなかで何かが変わる。個人が変わることを前提とするのであれば、個人を分析の単位とすることが妥当とは言えない。むしろ、個人の発言がなされたコンテクスト(状況、文脈)に注目する必要があるだろう。第三者だけでなく当事者の利害関心にも注意を払い、さらに両者の発言をコンテクストに還元することによって、記録に残されなかった大多数の不在の存在が浮かびあがってくるはずだ。

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7 Hagood, Margaret Jarman. Mothers of the South: Portraiture of the White Tenant Farm Woman, New York: W. W. Norton & Company, 1977

「アメリカ合衆国における避妊の普及」
全13回シリーズ:1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13

2007年11月10日土曜日

「人権」と比べて、「人命」という言葉は...



「アメリカ合衆国における避妊の普及」
全13回シリーズ:1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13
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序論

「人権」と比べて、「人命」という言葉はよほど具体的で形あるもののように響く。ところが、ある対象を指してそれが命ある人間であるかどうかを決める基準は本質的なものではなく、ただ社会によって保障されているに過ぎない。例えば、アメリカ合衆国では1865年に憲法修正第13条が成立するまで、黒人奴隷は白人所有者の財産と見なされていた。そのため所有者から虐待を受けたとしても、厳密には殺人や強姦といった概念の成立しない時代があった。1

現代においても、特に医療の分野で命の境界についての議論が絶えない。20世紀後半には生命維持装置や免疫抑制薬の発達により、脳の機能が完全に停止している患者から臓器を摘出して移植手術を行なうことが技術的に可能となった。ニューヨーク州最高裁判所は1984年の時点で脳死患者からの臓器移植を合法とする判決を下し、同州は3年後に心肺機能の停止だけでなく、脳機能の完全停止を人の死の十分条件に加えている。2

命の終わりだけでなく、始まりについても同様のことが生命工学の分野で起きているが、より多くの人々に関わりのある問題としては人工妊娠中絶(以下、中絶)が挙げられる。1973年に合衆国最高裁判所が下したロー・ウェイド判決(Roe v. Wade)によって一時は制度上の決着をみたように思えたが、後に勝訴した「ジェーン・ロー(本名Norma Leah McCorvey)」本人がプロ・チョイス派からプロ・ライフ派に立場を変えて裁判を起こしまでした。3 また、大統領選挙があるたびに民主・共和両党の候補者が中絶論争における自らの立場を表明し、大勢の有権者たちの関心を集めている。4 さらに2005年2月には、サウスダコタ州の議会で母体の生命に関わる状況を除いていかなる中絶手術も禁ずる法律が可決された。レイプや近親相姦による妊娠であっても中絶を認めないという厳しい内容だったが、翌月には州知事マイク・ラウンズ(Mike Rounds)によって承認されている。5 このような議論が繰り返し行なわれていることからも、いかに「人命」の定義が危ういものであるかがわかる。

中絶(abortion)にいたる前段階としての避妊(contraception)も同じ産児制限(birth control)という言葉でくくられる。中絶をめぐる議論がいまなお紛糾しているのに対して、避妊の必要性については現代アメリカ社会の中でおおよそのコンセンサスが形成されている。しかし、過去には避妊器具の輸送や避妊に関わる情報が猥褻物を取り締まる法律によって規制され、州によっては夫婦であっても避妊を実践することが認められない時期が20世紀中ごろまで続いた。したがって、避妊の是非についての論争も決して前世紀の問題だけではなく、将来的に再燃する可能性を秘めているのではないだろうか。

本稿の一番の目的は20世紀前半のアメリカ合衆国において、なぜ避妊が普及したのかを明らかにすることである。バース・コントロール運動は女性参政権成立を目指す、いわゆる第一波フェミニズム運動と時期を同じくしていることもあり、先行研究が豊富にそろっている。6 まず、第1章では先行研究や統計をもとにこの現象をとらえるための前提事項を整理したい。続いて第2章では避妊に「反対しなければならなかった」コンテクストを分析し、逆に第3章では避妊に「反対しなかった」コンテクストを分析する。なお、後半の2つの章では立ち位置によって「第三者によるもの」と「当事者によるもの」を区別して分析を行なっていく。一連の作業を通して、避妊の必要性がほとんど自明視されている現状が変化する契機となりうるものも浮き彫りになるはずだ。

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1 鈴木透『性と暴力のアメリカ―理念先行国家の矛盾と苦悶』 東京: 中公新書, 2006年, 41-42
2 “Failure of Brain Is Legal ‘Death,’ New York Says,” New York Times, June 19, 1987
3 “New Twist for a Landmark Case: Roe v. Wade Becomes Roe v. Roe,” New York Times, August 12, 1995
4 2004年の大統領選挙では共和党のブッシュ(George W. Bush)現大統領が中絶に反対する姿勢を見せた。
5 “South Dakota’s Governor Says He Favors Abortion Ban Bill,” New York Times, February 25, 2006
6 渡辺和子 編『アメリカ研究とジェンダー』 東京: 世界思想社, 1997年より、栗原涼子「女性史 第一波フェミニズムをめぐる女性運動史」, 2-21

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