2007年12月24日月曜日

クリスマスイブですが、はてブ棚卸しの時間です



クリスマスイブですが、何の因果か東京を遠く離れ熊本にいるので、明日からの仕事の準備をしつつはてなブックマークの棚卸しをして過ごそうと思います。やり方は基本的に昨年と同じです(参照:はてなブックマーク棚卸しのススメ)。


レバレッジ・ブックマーキング

なぜブックマークに棚卸しが必要なのかというと、「たくさんあると何となく気持ちが悪いから」というただそれだけのことのような気もしますが、本田直之『レバレッジ・リーディング』という本を読んだときに、著者と自分の情報に対するスタンスが似ていることに気がつきました。本書は効率的かつ戦略的なビジネス書の読書法を示したもので、具体的には「速読ではなく多読」、「本は汚すもの」、「読み終わってから抜書きをする」といったことが挙げられていて、いつか(いつ?)ブログで紹介しようと思っていたハウツーが次から次に出てきました。
極論を言えば、100項目全てを抜き出して、1つも身につけないよりは、重要な1項目だけを抜き出して、それを実践するほうが、リターンを得られるのです。(p.111)
上は抜書きノートを作成する際の注意事項ですが、ブックマーキングについても同じようなことが言えます。自分の課題や目的に合わせて、いま必要な情報を残すこと、つまりブックマークにもレバレッジをかけることによって、実生活に与える影響を最大化することができるのではないでしょうか。


棚卸しをサバイブしない優良記事

さて、はてブをはじめとしたソーシャル・ブックマークには人気投票としての機能もあるようなので、お世話になった記事のブックマークを解除するのは少なからず後ろめたさがつきまといますが、それでは棚卸しをサバイブしなかった記事がサバイブしたものより劣るかというと、全くそんなことはありません。
そもそもブックマークさせるスキを与えないサイトがいくつもあって、僕にとってその最たる例は「Going My Way」というサイトです。自分でウェブサイトを持つようになってから、何年にもわたってほぼ全ての記事を読ませていただいていますが、はてブにブックマークしたのはほんの数回のはず。
このサイトの優れている点は、ひとつには個人的に興味を持っているGoogleやFirefox、Skypeの情報が豊富なことですが、ここで取りあげたいのは、ブックマークすることによって後回しにしないですむほど具体的に、すぐに実践できるように書かれている点です。記事を読み終わってから試してみるまでの時間が短いため、結果として前述のGoogleやFirefox、Skypeの利用法はモロに影響されています。
とは言え、今年に入ってからははてなスターが登場したことによって、人気投票としての機能ははてブと使い分けが進んでいるのかもしれません。要するに今日ここで言いたかったことは、「ありがとう」、そして「嫌いにならないで」の2つです。

昨年の暮れには「500件以上あったブックマークを160件まで減らし」た、とありますが、今年は600件からのスタート。実際にやってみないとわかりませんが、400件ぐらいにしぼりたいな、と。やはり完璧を目指すとキリがないので、7-8割を目標に進めます。

2007年12月6日木曜日

人の命と直結することをテーマに...



「アメリカ合衆国における避妊の普及」
全13回シリーズ:1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13
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結論

人の命と直結することをテーマに据えたいと願って書き始めた。「何をもって人命とするか」という問いが人権問題に及ぼす影響を考えることから出発したのは序論で述べたとおりである。ところが、人命そのものの価値も絶対的なものではなく、「人命はなにものにも代えがたい」というクリシェを真ならしめるためには、間にかなりの数の条件を挟む必要があるらしいことがわかった。それまでに産み育ててきた子どもたちをこの上ない喜び、誇りとする母親たちがいる一方で、ただのリスクとしか見なされないことも往々にしてある。しかしここで大切なことは、それらを異常なこととして排除したり、善悪判断を下したりすることではない。

本稿はこれまで、避妊をとりまくコンテクストを「反対しなければならなかったもの」と「反対しなかったもの」とに分け、さらにその立ち位置によって「第三者によるもの」と「当事者によるもの」を区別して分析を行なってきた。一連の作業を通して第1章で述べた「政治家や医師、聖職者などの男性エリート層と、自らの身体をコントロールする権利を獲得しようとする女性たちを中心とした運動家の闘い」という枠組みに対して覚えた違和感のありかが、少しずつ明らかになってきた。まず、第三者として避妊に「反対しなければならなかった」コンテクストは、生殖が抑制されることが問題とされる場合と、生殖を目的としない性交が行なわれることを問題とする場合とに分けられた。第三者たちは前者が社会的秩序に、後者が道徳意識に関わる、それぞれ抽象的な問題意識を持っていたのに対して、当事者を避妊から遠ざけたのは習慣を変えることへの抵抗というはるかに実際的かつ具体的なものだった。避妊に「反対しなかった」コンテクストには社会的秩序や道徳意識の価値を尊重しつつ、別のアプローチによって目的を達成しようとするものも見られた。第三者たちにとって避妊は人種を自殺に追いやる恐れもある「毒」であると同時に、社会的秩序をコントロールするための「薬」として用いることができると考えられていた。

それでは、こうしたコンテクストが重なりあうなかで、なぜ避妊が普及するほうに傾いたのか考えてみよう。20世紀前半のアメリカ合衆国において避妊が普及した理由は、大きく分けて4つにまとめることができる。第一に、この時期に避妊技術の革新があった。従来的な避妊は射精をコントロールする禁欲的な性質が強かったのに対して、コンドームやペッサリーなどの避妊器具は膣内での射精を可能にした。性行為の主導権を握ることの多かった当時の男性たちにとってはより現実的な選択肢となるとともに、女性たちが主体的に避妊を行なうことも選べるようになった。第二に、公の場で行なわれた避妊の是非をめぐる議論は、全国的な規模で行なわれることによって賛成するものだけでなく反対するものも意図せずその普及に加担することになった。なぜならば、大勢の注目を集めること自体がそもそも避妊という選択肢があることを知らなかった人々にアクセスのきっかけを与えたためである。第三に、性や生殖に関する価値観の変容があった。なかでも大きな意味を持っていたのは、生殖が神秘的なものから科学的にコントロールすることのできる対象となり、自己管理の一環として避妊が実践されるようになったことである。そして第四に、違法とされる性交渉を隠匿する目的で用いられることもあったほど、避妊をする/しないという選択の結果が当事者以外からは見えにくいものだった。一度避妊に関する知識や技術を習得した人をあとから取り締まる、ないし「改心」させる手立てはごく限られていた。

これら4つの現象は上の順序通りに進行したわけではない。各種避妊法と性や生殖の価値観の関係は需要と供給の関係にあったと言うこともできるが、両者の関係は一方的なものではなかった。需要が供給を、供給が需要を生むことによって、相互に影響を与えながら時代とともに変化してきた。一般的な医薬品の場合には、具体的な化合物と適切な処方の両方がそろって初めて価値を持つ商品となるが、避妊が普及するためにはそのような技術的な進歩だけでなく、生殖に対する価値観の変容も不可欠だった。また、ある時代にたったひとつの価値観が共有されていたということはなく、一個人のなかでも矛盾しあう判断がせめぎあっていた。そのなかから当事者たちが各々の利害関心に応じて選択を行なう際にやはり重要だったのは、4つ目に挙げた選択のプライバシーがある程度確保されていたことである。選択の自由が確保されるためには、それを選択する権利があるのみでなく、選択結果次第で第三者からの不当な不利益を被る恐れがすくないことが欠かせなかった。

次に、避妊と中絶をとりまく状況が今日のように分岐したのはプライバシーの有無だけでなく、3つ目に挙げた自己管理としての位置づけも大いに関係がありそうだ。中絶は妊娠という事実に直面してからはじめて対処するものであるのに対して、避妊は予防的手段である。つまり、避妊は妊娠を予防するものであると同時に、特に結婚を前提としていない男女など出産を全く想定していない場合には、中絶というリスクをも予防するものである。したがって、中絶が大きな問題とされればされるほど、避妊には相対的に「反対されにくい」コンテクストが用意されることになる。逆にこうした両者の関係に変化が訪れれば、避妊をめぐる論争は必ず再燃するはずだ。将来的に新しい避妊の技術が登場することは容易に想像できる。例えばモーニング・アフター・ピルの確実性が増し、かつ副作用がほとんどなくなればいま以上に多くの女性たちによって利用されるだろう。そうなれば、予防的手段としての避妊技術全般と中絶との差異は一段とあいまいなものとなり、「避妊は認めるが中絶は認めない」と考えているグループに改めて避妊について考える機会をもたらすことになる。

最後に、20世紀前半の人々が避妊という選択肢に反対しなかったことが現代の当事者たちにもたらした自由の性質について考察し、結びとしたい。避妊を実践することが半ば前提とされるようになると、避妊に失敗することは妊娠だけでなく、自己管理の失敗も意味することとなった。そこで問題となるのは、妊娠やピルなどの一部の避妊法を採用した際に予想される副作用のリスクは女性たちの身にのみ降りかかることだ。また、たとえどれだけ注意深く避妊を実践していたとしても、性交渉を持ったならば妊娠の可能性はゼロではない。つまり、避妊に失敗して中絶に頼らざるを得ない女性たちは必然的に出てくるのである。ところがそうした「運の悪かった」人々は、避妊が社会的に受け入れられ、かつそれが簡単で当然なことと見なされれば見なされるほど、周囲の同情を受けにくい状況に立たされることになる。避妊についての知識がなく多産多死があたりまえだった時代には、将来何人の子どもたちに恵まれるかは「神のみぞ知る」ことだったが、現代においても中絶の当事者になるかならないかの境界は人間には計り知ることのできない領域にある。避妊の実践者と中絶の当事者の一部を隔てるものはただ偶然のみであるとしても、後者の数が圧倒的に少ないため、また前者は避妊による自己管理を自負しているため、潜在的当事者としての自覚は薄いと考えられる。ここに不完全な避妊に対する過度の期待、盲信とも呼べる危うさがある。いまとなっては反対しないことはあまりに簡単だが、反対する余地は十分に残されている。

「アメリカ合衆国における避妊の普及」
全13回シリーズ:1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13

2007年12月5日水曜日

もしも妊娠が性交渉を立証する唯一のものであるならば...




「アメリカ合衆国における避妊の普及」
全13回シリーズ:1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13
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隠匿

もしも妊娠が性交渉を立証する唯一のものであるならば、妊娠を防ぐことによって性交があったという事実を隠蔽することができる。実際にそのように考え、行動した人たちは少なくなかった。マーサ・ホーズ(Martha Hodes)によれば南北戦争期の南部において、白人男性と黒人女性だけでなく、白人女性と黒人男性の間でもしばしば肉体関係が持たれた。55 「それはいとも容易く隠せるんだ。女性が妊娠しないようにさえすれば、絶対に安全だ」という言葉だけを引くと黒人男性があたかも積極的に避妊を受け入れていたように聞こえるが、彼らをとりまくコンテクストは複雑なものだった。56 当時の南部社会では白人男性と黒人女性の場合には両者の間で合意が成立していなくともほとんど問題とされることがなかったが、もしも白人女性と黒人男性が関係を持ったことが当事者以外に発覚すれば、合意の有無に関わらず黒人男性は生命の危機に直面することになった。また、プランター階級の白人女性のなかには自らの権力を振るうことのできる都合のいい相手として黒人男性を誘うことがあった。このとき黒人男性にはそれを断ることが難しく、ほとんどの場合は素直に応じるほかなかったとされる。なぜならば、もし白人女性の誘いに応じなければ、第三者に密告されることを恐れた彼女によって、口封じと称して抹殺される危険性があったためである。そして、白人女性たちは持てる知識を総動員して妊娠を防ごうとした。白人の子どもを妊娠したのであればどうにかごまかすこともできたとしても、黒人の子どもを出産すれば明らかに夫以外との人種混交(miscegenation)があったことを意味し、厳しく追及されることになるためだ。

違法な性交渉を隠匿するために用いられることのあるくらいだから、避妊を行なっていることを隠すことはさらに容易だったのではないだろうか。もしそうだとすれば、第三者としては避妊に反対しなければならない立場におかれた人も、当事者としては避妊を実践していた可能性があり、とくに避妊を普及させることには消極的だった医師たちが当事者としては反対せずに実践していた可能性が高い。取り締まりを行なう側としても、長期的な統計を見れば確かに出生率が低下していることなどから避妊の普及を把握することができるが、「現行犯」を押さえることはもとより、具体的にどの夫婦が避妊を実践しているのかということまではわからない。水際で食い止めなければ、あとの祭りとなったのだ。

章のまとめ

避妊に「反対しなければならなかった」コンテクストを支えた社会的秩序と道徳意識は「反対しなかった」コンテクストにおいても尊重され、共通項をみいだすことができた。つまり、「反対しなければならなかった」コンテクストが抱えていた問題を別のアプローチにから解決する糸口となることもあった。また、当事者にもいくつものコンテクストの重なり合いが認められたが、反対せずに受け入れていく上では避妊の持つ秘匿性が有利にはたらいた。このように、はじめから普及を目的とした積極的な運動だけでなく、「反対しない」コンテクストの存在も避妊の普及に大きく貢献した。

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55 Clinton, Catherine. Nina Silber ed. Divided Houses: Gender and the Civil War, New York: Oxford University Press, 1992, Hodes, Martha. ‘Wartime Dialogues on Illicit Sex: White Women and Black Men,’ 230
56 “[…] the thing can be so easily concealed. The woman has only to avoid being impregnated, and it is all safe.” Hodes, 236

「アメリカ合衆国における避妊の普及」
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2007年12月4日火曜日

1930年代の南部白人小作農の母親たちが...



「アメリカ合衆国における避妊の普及」
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第二節 当事者として

適正な人数

1930年代の南部白人小作農の母親たちが、これまで産み育てた子どもたちについて自信と誇りを見せていたことについては前章で指摘したとおりであり、ここで繰り返すまでもない。しかし、同じ母親たちが、将来的な妊娠の可能性に対してはまた異なる態度をとっている。ある母親の証言を引いてみよう。
13人の子どもたちをかかえて、それでもなお力強く、どんな町の女よりもよく働いている女を見たと(読者に)言ってやっていい―でも、今度あんたがうちに来るときにもう一人増えていないといいんだけど。52
確かにたくさんの子どもたちを産み育てることは大勢の働き手を得ることにつながったので、母親たちは漠然とではあるものの、家族に対して貢献しているという実感を持っていた。しかし、子どもたちに食べさせなければならない。家族の人数に見合った十分な耕作地がなければ、労働力を活かすこともできなかった。さらに、度重なる出産は疑いようなく母親たちの体にとって大きな負担となっていた。しかも、彼女たちはお産が始まる直前まで働き、すばやく出産を済ませ、できるだけ早く畑仕事に復帰することを美徳としていたので、十分に休養をとらずに無理を重ねていた。53

それでは、自信や誇りは建前にすぎず、こちらが本音であったのだろうか。おそらくどちらもヘイグッドを同じ女性として信頼して語った複雑かつ正直な気持ちだったと考えられる。『南部の母親たち』もこの地域における高い出生率について、こうしたコメントを反映する2通りの見解を示している。ひとつには大勢の子どもたちを産み育てている母親たちは合衆国の将来にかかわるほど重大な存在であるという主張であり、もうひとつはあまりに高すぎる出生率が小作農たちを構造的貧困に追い込んでいるという分析である。54 注目すべきは、この母親がすでに13人の子どもたちを産み育てていることである。ある人数までは自然に産み、それに達したら避妊を実践するというやり方が可能であるならば、彼女たちにとって反対しなくて済むコンテクストが開けるのではないだろうか。

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52 Hagood, 127. 括弧内は筆者が補足した。
53 Ibid., 115
54 Ibid., 240

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2007年12月3日月曜日

判事が産児制限を勧めて...



「アメリカ合衆国における避妊の普及」
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毒と薬

あまり知られていないが、判事が産児制限を勧めて話題を呼んだ事例がある。1928年12月、オハイオ州クリーヴランドの判事ハリソン・ユーウィング(Harrison W. Ewing)は28歳のオットー・クーリム(Otto Kourim)と22歳の妻ヘレン(Helen)の2人による離婚申請を却下した上で、「私はあなたたち自身に対し、また社会に対してこれ以上の子どもたちを負わせることを許さない」と述べた。その際、はっきりと”birth control”という言葉を用いて産児制限を勧めたことが物議を醸すきっかけとなった。クーリム夫妻は5年間の結婚生活で3人の子どもをもうけていたが、夫の週給はわずかに24ドルだったと言う。また夫婦間の口論は絶えず、裁判の6ヶ月前より別居状態が続いていた。ユーウィング判事は離婚申請を却下する代わりに、もしも夫妻が3年間新しく子どもをつくらなければ、かつ3年経ってもまだ離婚を望むならば、そのときには2人の離婚を認める、と言い渡した。当時のオハイオ州の法律は「何人たりとも、産児制限についてのいかなる情報を販売、陳列、提供してはならず、実践してもならない」と定めていたので、判事自身はすでにこれに抵触し、加えてクーリム夫妻が判事の勧めに従えば彼らも州法を犯す状況が生れた。しかし、ユーウィング判事は以下のように述べて力強く自身の下した判決を擁護した。
クーリム夫妻のケースにおける最も重要な争点は子どもたちである。(中略)最初の子どもが1歳のときにいずれかの裁判所が産児制限を勧めるべきであったのだ(中略)彼らの問題は州法の問題を直接的に反映するものである。産児制限についての情報こそがまさにこのような状況にある夫婦を救うものであるのにもかかわらず、裁判所はそれを提供することを禁じられている。49
この記事は、「どの州にも産児制限についての情報を提供する医師―しかもその多くが信頼のできる医師たち―がいること、そしてほとんどすべての雑貨屋(drug store)が避妊具を売っている」という当時の実情についても言及している。制度と実情がいかにかけ離れていたかを端的に示すものである。さて、ユーウィングは最も重要な争点(most important principal)として幼い子どもたちのことに触れたが、これは判事が彼らに対して同情的だったことを意味するのだろうか。「子どもたちを社会に負わせる」というもの言いからは、別の解釈ができそうだ。ずばり、判事は十分な経済力を持たない親たちが無計画に子どもをつくり続けてしまう状況を問題視しているのである。

このことをよりよく理解するためには、ノースカロライナ州の主席判事フレデリック・ナッシュ(Frederick Nash)が1854年に示した見解が参考になる。ナッシュは当時増え続けていた非嫡出子の問題に取り組んだが、彼の方針は無責任な親を捕まえて処罰することではなく、非嫡出子が生活保護者(public charges)となるのを防ぐことだった。50 つまり、ナッシュは非嫡出子の増加を道徳的な問題とはせず、経済的な問題して扱い、父親たちには養育費の支払いのみを義務付けた。ルーズベルトの描いた社会的秩序を維持するためには、白人中産階級の相対的な人口が国内において一定割合を確保していることが肝要だった。相対的ということに限れば、白人中産階級の人口を増やすこととそれ以外の人口を抑制することは同様の効果が期待される。避妊は人種を自殺に追いやる恐れもある「毒」であると同時に、社会的秩序を維持するための「薬」としても機能するとユーウィングは考えたのではないか。3年間という期間は子どもたちがある程度成長するまで親に養育の義務を負わせるということを意味している。ひょっとすると、ユーウィングの本心は子どもたちの状況を不憫に思い、彼らのために両親を別れさせない判決を下したのであって、これまでに展開した議論は判事なりのレトリックに欺かれたに過ぎないのかもしれない。しかし、万が一そうであったとしても、社会的秩序を維持するために避妊が肯定されうるコンテクストがあることを彼が見抜いていたことになる。

友愛結婚

ユーウィングよりも広く知られている判事として、友愛結婚(companionate marriage)の可能性を主張したコロラド州デンバーのベンジャミン・リンズィ(Benjamin Barr Lindsey)が挙げられる。友愛結婚とは男女が結婚する前に友人あるいは恋人の関係となって相互理解をはかろうとするひとつの理想だった。 51 それまでのビクトリア朝時代の結婚とは、男女が対等な関係であることと性的な親密さが重視された点で大きく異なっていた。いまでこそ男性が女性のことをパートナーと呼ぶことがあるが、そうした感覚は当時としては画期的だった。友愛結婚が掲げる性的な親密さは生殖を意味せず、避妊が前提とされていた。第2章ではピューリタニズムをはじめ、さまざまな道徳意識が夫婦の絆を重視するものだったと述べた。友愛結婚は結婚の絆と言う従来からある価値を尊重し、そのためには結婚に先立ってお互いを知ることが必要性だと説いたのである。

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49 “Birth Control,” Time Magazine, December 17, 1928
50 Bynum, Victoria E. Unruly Woman: The Politics of Social & Sexual Control in the Old South, Chapel Hill and London: The University of North Carolina Press, 1992, 103-104
51 G・デュビィ, M・ペロー 監修. 杉村和子, 志賀亮一 監訳『女の歴史 20世紀Ⅰ』東京: 藤原書店, 1996年より、ナンシー=F・コット「近代的女性:1980年代のアメリカン・スタイル」, 138-141

「アメリカ合衆国における避妊の普及」
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2007年12月2日日曜日

避妊に「反対しなければならなかった」コンテクストを...



「アメリカ合衆国における避妊の普及」
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第3章 避妊に反対しなかったコンテクスト

避妊に「反対しなければならなかった」コンテクストと避妊に「反対しなかった」コンテクストの違いはどこにあるのだろうか。また、第三者による論争を当事者たちはどのように受け止めたのだろうか。

第1節 第三者として

避妊に「反対しなければならなかった」コンテクストを支えた社会的秩序と道徳意識は「反対しなかった」コンテクストにおいても尊重されることがあった。2つのコンテクストを比較することにより、その性質がより鮮明になる。

男性の健全化

サンガーは1912年に「全ての娘が知るべきこと(What Every Girl Should Know)」という、避妊を適切に行なう方法を指導する記事を書いている。ところが郵政省は事前に検閲を行ない、コムストック法によって記事の出版を許可しなかった。そのため雑誌の該当ページにはタイトルだけが掲載され、本文には「何もない、郵政省の命令により」とだけ印刷された。44 驚くべきことに、検閲される前の原文は第一次世界大戦期に合衆国政府によって兵士たちに配られた。45

当時、兵士たちの間では性病(V.D.)が蔓延していた。ゴードンによれば、1917年9月から1919年2月までのあいだだけで、陸軍と海軍あわせて28万件を超える症例報告があった。46 抗生物質のない時代だったため、予防が最善の手とされた。こうして、避妊に反対する立場にあった政府が超法規的な措置として兵士にコンドームを支給することになった。政府にとって、国家の手足となって戦争に従事する兵士の健康を維持することは社会的秩序を維持することと同一線上にあり、かつこの場合には優先されることとなった。また、訓練キャンプは男性たちに性教育を提供することを通して自己管理された性的道徳と肉体という男性性を浸透させた。47 480万人の男性を対象としたこうした指導の効果は、彼らが戦場から帰還することによって全国的に広がりをみせ、1920年代および30年代の調査によれば、コンドームは膣外射精に続いて2番目に人気のある避妊法となった。48

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44 ”NOTHING, by order of the Post-Office Department,” Gordon, 214
45 Ibid., 214. パンフレットは著者であるサンガーには無許可で複製された。
46 Ibid., 205
47 Bristow, Nancy K. Making Men Moral: Social Engineering During the Great War, New York: New York University Press, 1996
48 Ibid., 63

「アメリカ合衆国における避妊の普及」
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2007年12月1日土曜日

ところが、母親たちの妊娠についての理解は...




「アメリカ合衆国における避妊の普及」
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消費に対する消極性

ところが、母親たちの妊娠についての理解は自分自身や親戚などの実体験によるところが大きく、避妊についてはうわさ程度の知識しか持っていない者が多かった。40 ヘイグッドはこの地域で避妊の普及を阻んでいる理由のひとつとして、母親たちが実験的な試み(experimental venture)に費やすような現金を持ち合わせていなかったことを挙げている。41 これは現代の感覚から単純に彼女たちの貧しさを指摘することとは違う。当時の小作農の一家は自給自足を原則とし、砂糖やコーヒーなど自分の農場では生産することのできない一部のものに限って他所から購入していた。加えて、雑貨屋の支払いはつけで行なわれることが多かったので、現金に触れる機会は限られていた。また、家族全員で働いて得た収入は家族全員のものとされ、個人が好きなときに自由に使えるわけではなかった。つまりこの地域の住民は避妊器具に限らず、消費すること全般において消極的だったのである。

消費することに対して極端なまでに消極的であり続けることができたのは、一度購入したものについてはできる限り長く使い続けようとする、母親たちの恐るべき執念だった。例えば、ある母親は1組だけの靴で2年間をしのいでいる。42 靴の寿命を延ばすために夏は裸足で過ごしたが、その靴も日々の重労働によってもはや繕うことができないほど壊れていたと言う。また別の母親は、自分の妹の陣痛が始まることを夢の中で察知したとき、彼女が買ったばかりのマットレスの上でお産をすることを許さなかった。43 彼女は自分が妹を愛していることをわざわざ断っているが、それでも目の前で大切なマットレスが台無しにされてしまうのは我慢ならなかったようだ。そこで、代わりに破れたキルトを持ってきて、妹をそこに促した。これら2つの事例は母親たちの忍耐強さを示す一方で、衛生観念の未熟さも表している。

このように、たとえ度重なる経験から自分がどのように妊娠するかを推測できていたとしても、また妊娠せずにすむ方法があることをうわさでは知っていても、自己犠牲を当然のものとして受け入れている母親たちが、自分の都合のためだけに一家にとって貴重な現金を、それも子どもを産むという代わり手のいない義務を放棄するために使うことには大きな抵抗があったと考えられる。女性が主体的に使うことのできる避妊器具が市場に出回っていることと、それを主体的に購入することができるかどうかはまた別の問題だったのである。ヘイグッドの資料からは父親たちがどのように考えていたかがあいまいにしか分からないことは前章にも述べたが、彼らが沈黙していても妻には思いとどまるのに十分な条件がそろっていた。

章のまとめ

第三者として避妊に反対しなければならなかったコンテクストは、生殖が抑制されることが問題とされる場合と、生殖を目的としない性交が行なわれることを問題とする場合とに分けることができる。前者は社会的秩序、後者は道徳意識と結びついていたが、いずれについても普遍的なものではなかった。一方、当事者を避妊から遠ざけたのは習慣を変えることへの抵抗だった。避妊についてうわさ程度には知っているものの正確な知識や技術、そして専用の避妊器具にアクセスする機会を十分に持たない人は多く、特に貨幣経済が成熟していなかった非都市部では消費に対して消極的だったことも影響した。また、いざそのようなアクセスの機会が与えられても、特定の宗教に対する信仰や男女のセクシュアリティが避妊を選択する妨げとなることがあった。

このように、反対しなければならなかったコンテクストの内部で第三者と当事者を比較すると、第三者がとても雄弁に語ってみせているのに対して、当事者には戸惑いの色が濃く、あいまいな態度も見られた。大統領による公的な演説と一個人による私的な声を比較すればそのような違いが現れるのは必至かもしれないが、少なくとも両者が同じ次元で避妊の問題を認識していなかったこと、および利害関係の不一致は明白である。

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40 Hagood, 118
41 Ibid., 126
42 Ibid., 42
43 Ibid., 119

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2007年11月30日金曜日

第三者がたとえどのような働きかけを行なったとしても...



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第2節 当事者として

第三者がたとえどのような働きかけを行なったとしても、避妊という行為の性質上、最終的にそれが実践されるか、されないかは性交を行なう当事者たちにかかっていた。ここからは当事者を避妊から遠ざけ、あるいは躊躇させたコンテクストを分析していきたい。

戸惑い

1941年、ジョサイア(Josiah B.)は「私の家に悪魔がやってきて、私の最も弱い部分を誘惑した」と会衆の前で証をした。「悪魔(evil)」と呼ばれたのは公衆衛生看護婦ラナ・ヒラルド(Lana Hillard)で、彼女は妊娠可能年齢にあるすべての女性に対してコンドームや殺精子剤を提供するため、ノースカロライナ州西部のワトーガ郡を回っていた。ジョサイアは自身の避妊に対する道徳的な反発と看護婦の申し出を受けようとする妻との間で揺れ、教会に霊的な支えを求めたのである。結果としてジョサイアは妻の求めに不本意ながら応じることになった。 34

以上はコンドームと殺精子剤の有効性を調査した記録に残されているものであり、貧しい男性の声として貴重なものである。「悪魔」という言葉が用いられていることが目を引く。教会の教えに反するもの、性的な事柄に直接言及することを回避する手段として、このような喩えが使われたと推察される。夫たちは、特に貧しい者ほど無力な姿で描かれていることが多い。家庭や性の営みおける主導権など便宜的なものでしかなく、むしろ夫たちはそれがくびきになっているように記述されるのも特徴だ。ノースカロライナ州ではこの時期すでに夫婦間での避妊が認められていたが、それでもジョサイアは避妊をすんなり受け入れることはできなかった。このことから、反対しなければならないコンテクストには、ときに法的制約に勝る道徳意識を加えざるをえないだろう。

男女のセクシュアリティ

荻野美穂によれば、労働者階級では大勢の子どもがいることが男らしさの証明と結びつけられる傾向があった。35 また、ヘイグッドがインタビューを行なった1930年代の南部白人小作農の母親たちも「やり遂げたことが1つある、子どもたちを育てたんだ」といった調子で、子どもたちを育てあげた経験を自信と喜びをもって語っている。36 データのそろっている115人の母親たちは平均18.6歳で結婚し、1年に0.37人という驚異的なペースで子どもを産み続けていた。37 これは単純計算に基づくものなので、若い母親たちの場合にはその周期がさらに短かったと言う。

1905年にルーズベルトが演説のなかで提示した「第一の義務」を思い起こすと、彼女たちは最も忠実で模範的な女性たちだったと言えるのかもしれないが、彼女たちの誇りの源を知るためには、当時の小作農一家における女性や子どもたちの位置づけが中産階級と大きく異なることを指摘しておく必要がある。確かに母親たちは出産と子育てを変わり手のいない、自身にとって最も大きな責任と感じていたが、多くの場合は夫が家族全員分のパンの稼ぎ手だった中産階級とは異なり、女性や幼い子どもたちも畑仕事のための貴重な労働力とされていた。「あたしが結婚したとき、パパは自分の右腕を失ったって言ったものよ」というコメントににじみ出ているように、母親たちは家事も畑仕事も精力的にこなし、なかには男勝りに働いてそれを誇りとする者もいた。38 このような環境においては、自分がこれまでに産み育てた子どもの数は家族に対する貢献を表す、具体的で分かりやすい尺度だったのではないだろうか。そのように考えれば、インタビュアーには1人しか子どもがいないことを知った、産婆としての経験も長いある母親が、「それじゃあ、あんたは赤ん坊を産むことについてなんにも知らないわけだ―いいからあたしの言うことを聞くんだね」と自信をのぞかせたことにもうなずける。39

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34 Schoen, Joanna. Choice & Coercion: Birth Control, Sterilization, and Abortion in Public Health and Welfare, Chapel Hill: University of North Carolina Press, 2005, 21-23
35 荻野『生殖の政治学』, 39
36 “There’s one thing I have done, I have raised my children.” Hagood, 155
37 Ibid., 109
38 “My papa said he lost his best hand when I got married.” Ibid., 89
39 Ibid., 111

「アメリカ合衆国における避妊の普及」
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2007年11月29日木曜日

バース・コントロール運動にとって...



「アメリカ合衆国における避妊の普及」
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道徳意識

バース・コントロール運動にとって制度上の障壁となった最たるものは1873年3月3日に議会で可決されたコムストック法(Comstock Law)と呼ばれる連邦法だった。この法律は避妊によって生殖が抑制されることではなく、生殖を目的としない性行為に反対するものであるため道徳意識にカテゴライズされるが、社会的秩序を守ろうとした人々にとっても便利なものであったことは想像に難くない。コムストック法の条文にはすべての「猥褻で、淫らで、好色な(obscene, lewd, or lascivious)」品物の郵送を禁ずるとあり、このなかには受胎を妨げ、あるいは堕胎をうながすことに関わる記事や物品が含まれていた。25 法律を成立に導いたアンソニー・コムストック(Anthony Comstock)本人の言として「六両編成の客車一杯の人間を性的不品行で有罪にし、何百トンものわいせつ物を破棄した」とあり、彼がいかに意欲的だったかがわかる。26

その一方で、亀井俊介はコムストック法が産児制限のための情報や文学作品における性的描写を厳しく取り締まる一方で、同時期に売春が全盛を迎えていたことを指摘している。27 亀井によれば、植民期から姦通を取り締まる法律はあり、特に女性が重点的に取り締まられたが、売春を取り締まる法律は第一次世界大戦にアメリカが参戦する頃まではなかった。28 さらに、売春を事実上黙認することは男性の性欲から家庭にいる貞節な妻を守るだけでなく、売春婦を取り締まらずに虐げることによって相対的に貞節な女性たちの尊厳を高める、二重の意味で堤としての機能を持つと考えられていた。29 ここでも男性の性的欲望は不可避なものとしてとらえられ、女性の価値を二極化することによって、彼女たちの行動を制限しようとしていることが伺える。「避妊は売春婦が横行することにつながる」と彼らが言うとき、それは「避妊を行なう女性は売春婦と見なす」ことを暗に意味していたのである。こうした思考はルーズベルトの演説に通ずるものがあると言えるだろう。要するに、コムストック法は厳しい法律である一方で、取り締まる対象にははっきりと恣意性が認められる。そのため、確かにこの法律は郵便物の検閲やクリニックを取り締まることによって避妊の拡大を抑制することができたが、一度避妊を猥褻なものとしてではなく、便利なものとして受け入れた当事者たちを「改心」させる力はほとんど持っていなかったと考えられる。

「改心」を促す力があるとすれば、それはユダヤ教やキリスト教などの宗教の存在であろう。なぜならば、コムストック法は人の目による取り締まりであるため、工夫次第でやり過ごすことができたが、信仰を持つものにとって神の目は欺くことはできないからだ。ユダヤ教やキリスト教において性行為が認められるのは生殖を目的として行なわれるときのみであるとされていた。その根拠とされたのが旧約聖書38章6節から10節に見られる記述である。
ユダは長男のエルに、タマルという嫁を迎えたが、ユダの長男エルは主の意に反したので、主は彼を殺された。ユダはオナンに言った。「兄嫁のところに入り、兄弟の義務を果たし、兄のために子孫をのこしなさい。」オナンはその子孫が自分のものとならないのを知っていたので、兄に子孫を与えないように、兄嫁のところに入る度に子種を地面に流した。彼のしたことは主の意に反することであったので、彼もまた殺された。 30
ここで、オナンが「子種を地面に流した」ことが膣外射精を意味すると考えられた。さらに、13世紀にトマス・アクィナス(Thomas Aquinas)が婚姻関係にある男女による、生殖を目的とした場合に限って性交が認められるとしたことによって、この箇所の解釈が固定した。31 しかし、エドマンド・モーガン(Edmund S. Morgan)によれば、アメリカのピューリタニズムにおいて性交は人間本来の欲望として認められていた。すなわち「ピューリタニズム」という言葉から連想されるような完全な禁欲を説いたのではなく、主に婚外交渉を厳しく禁じたのであり、夫婦間での性交に設けられていた唯一の制約は、それが信仰生活を妨げない範囲で行なわれることだった。32 このように、ピューリタニズムの伝統的な道徳意識は男女が夫婦となること積極的に肯定するものだったが、このことが社会的秩序にもたらす恩恵にはどのようなものが考えられるだろうか。

結婚は誰もが自分の思うようにできるわけではなく、必ず相手を必要とする。そして、多くの場合には相手や相手の家族からはさまざまな条件を満たすことを要求される。年齢もそのひとつである。文化の違いや個人差はあるものの、結婚するべき年齢の幅についてはある程度の合意がある。他には自立するのに必要なだけの経済力が求められることが多いだろう。また、それ以外でも社会的地位が確立されていれば、多くの場合は有利に作用する。これらの条件を満たした先に結婚があり、かつ生殖が夫婦間のみにおいて認められるかぎり、結婚は生殖の資格を持つべきものと持つべきでないものをふるいにかけるシステムと捉えることができる。

なお、避妊について最も頑なだったのがローマ・カトリック教会だった。カトリックの神父や修道女たちは生涯独身を通すので、原則として性行為や避妊の当事者とは成りえない特異な存在だったことをまずは指摘できる。しかしおそらくそれ以上に重要だったのが、全世界のカトリック教会が一致して歩むという基本姿勢だった。自らを正統と自負する権威は「変わらないこと」によって保障されるものであったため、必然的に避妊に反対しなければならないコンテクストができあがった。結果論になるが、この頑なさは避妊が普及するにしたがってアメリカ人に神ではなく人による技術を信じる機会を与え、社会における影響力を弱めることになった。1930年代の新聞には苦肉の策として、避妊は肉体的健康を損なうという主張が掲載されることもあった。33

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25 “The Secret History of Birth Control,” New York Times, July 22, 2001
26 荻野美穂『生殖の政治学―フェミニズムとバースコントロール』東京: 山川出版社, 1994年, 50
27 亀井俊介『ピューリタンの末裔たち―アメリカの文化と性』東京: 研究社, 1987年, 106
28 Ibid., 112
29 Ibid., 108-109
30 『新共同訳聖書』東京: 日本聖書協会, 1999
31 Gordon, 7
32 カール・N.デグラーほか著. 立原宏要, 鈴木洋子訳『アメリカのおんなたち:愛と性と家族の歴史』東村山: 教育社, 1986年より、エドマンド・S.モーガン. 鈴木洋子訳「ピューリタンとセックス―厳しいモラル、だが現実には寛容」, 202-203
33 “How the Churches View Birth Control: Father Cox Quotes from the Records To Show their Expressed Opposition to It,” New York Times, January 14, 1934

「アメリカ合衆国における避妊の普及」
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2007年11月28日水曜日

個人の生き方に国家などの第三者が...



「アメリカ合衆国における避妊の普及」
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第2章 避妊に反対しなければならなかったコンテクスト

分析を行なうにあたって、特に第三者と当事者が置かれたコンテクストの相違点を意識し、第三者による言説がどれほど当事者の利害関心にかなっていたのかに注意したい。

第1節 第三者として

個人の生き方に国家などの第三者が介入することを正当化するためにしばしば使われたのが社会的秩序(social order)と道徳意識(morality)いう言葉だった。その際争点となるのは、誰にとっての社会秩序、道徳意識なのかということである。

社会的秩序

1905年3月13日、当時の合衆国大統領セオドア・ルーズベルト(Theodore Roosevelt)は「アメリカの母性について」という演説を行なった。22 大統領はこのなかで、「この世の終わりまで変わることのない真理」として、妻と夫が果たすべき義務について説明している。23 夫の第一の義務が一家の稼ぎ手となることであるのに対して、妻の第一の義務は良き妻・主婦・母親となることとされた。この違いについては、男女はもともと違う(normally different)のだから、それぞれの負う義務が異なるのも当然であり、それが「両者の不平等を意味するのではない」と断言している。さらに、「全体として、両者のうち女性の義務のほうがより重要で、難しく、尊いものであると私は考える。全体として、義務を全うする男性よりも、義務を全うする女性に対して私は敬意を表する」と続けている。

ルーズベルトがこのようなレトリックを用いた理由は演説の後半における「第一の義務」を全うしようとしない女性たちに向けられた強い非難から明らかになる。女性の第一の義務として母親となることが含まれている以上、とりわけ妻でありながら子どもを持たないことは人種に対する犯罪だとされ、ひいては人種の自殺(race suicide)につながるとまで主張している。

ルーズベルトの演説が行なわれた背景には19世紀末から白人中産階級の出生率が急速に低下していたことに対する危機感があった。24 また、いわゆる新移民の増加も相対的に白人中産階級の人口を脅かした。社会的秩序を維持するための人口が相対的に減少することは国内政治における力関係に影響を及ぼしたが、アメリカ人全体の人口の伸びなやむことは国際社会にてらしたアメリカの国力を左右する問題とされた。いずれの場合においても争点となったのは人口であり、したがってこうしたコンテクストが避妊と衝突するのは、避妊が生殖を抑制するものだったために尽きる。ここで、性と生殖の関係について整理してみよう。

効果的に避妊が実践されている状況においては性行為と生殖は必ずしも直結せず、性行為自体を目的とした性(sex)と、行為の結果としてもたらされる生殖(reproduction)とに分けて考えることができる。もちろん、姦淫や強姦などの性的逸脱や暴力は古くからあったはずで、それらが自らの子孫を残すことを目的としたものだったとは考えにくい。また、妊娠のメカニズムについての知識がほとんどない状況では、性行為がどれほど生殖を意識して行なわれていたかも疑わしい。しかし、効果的な避妊技術が生殖をコントロールするための試行錯誤を通して生れ、かつ後者をある程度コントロールすることができるようになると、前者の快楽のみを追求することが可能となった。したがって、避妊に反対しなければならなかったコンテクストは「生殖そのものが抑制されること」が問題とされる場合と、「生殖を目的としない性交が行なわれること」を問題とする場合を分けて考えなければならない。人口にまつわる社会的秩序という大義名分がかざされるときには、手段として後者について言及することはあるにしても、目的はあくまで生殖そのものが抑制されている事態を打開することにあった。

さて、この演説は全国母親協議会(National Congress of Mothers)、いわゆるPTA(Parent-Teacher Association)の前身となる組織を前に行なわれたので、聞き手はまさに白人中産階級の母親たちだった。つまり、「アメリカの母性について」と銘打たれているものの、実質的には白人中産階級の母親たちに向けられたものであり、このことはルーズベルトの言う社会秩序がどの集団に依拠しているかを如実に表している。このように巧みなレトリックとチャールズ・ダーウィン(Charles Darwin)の自然淘汰説を下敷きにした「科学的な」説明によってルーズベルトは母親たちに訴えたのだった。しかし、強い国民によって強い国家ができあがるという発想は保守的な制度や慣習、すなわち白人中産階級という集団の優秀さや「第一の義務」を果たす母親たちの価値を自明視するとともに、義務や責任を構成員である個人に帰する厳しさを併せ持っていた。

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22 Roosevelt, Theodore. "On American Motherhood," March 13, 1905
23 “truths which will be true as long as this world endures”
24 有賀夏紀『アメリカ・フェミニズムの社会史』東京: 勁草社, 1988年, 134-135

「アメリカ合衆国における避妊の普及」
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2007年11月27日火曜日

最も古くからある避妊法は...




「アメリカ合衆国における避妊の普及」
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避妊技術の発達

今度は、年表的事項やグラフの情報に具体的な避妊技術の発展を加えてみよう。最も古くからある避妊法は、現代からすれば儀式や呪術としか呼べないようなしろものである。しかし、効果が本当に信じられていたならば、それらが女性の心身に何らかの影響を及ぼして妊娠を妨げた可能性を完全に拭い去ることはできない。全く効果がなかったとは言い切れない以上、儀式や呪術も避妊の一種と呼ぶことができるとするゴードンの指摘には筆者も同意する。16 後ほど詳述するが、現代においても100%確実な方法がない以上、避妊を実践することは避妊の確実性を信じることと強く結びついているのではないだろうか。17

それでは、近代的な避妊法にはどのようなものがあったのだろうか。妊娠のメカニズムが科学的に解明される以前から、男性の精液と妊娠の関係が経験的に理解された時点で、その侵入を防ぐさまざまな方法が考えられた。例えば、男性が射精せずに性交を終える抑制性交(male continence)や、膣外で射精をする中絶性交(coitus interruptus)は特別な器具を必要とせず効果も比較的高かったが、その分知識と男性の自制が要求された。18 同様に禁欲的性質の強いものとして周期法が挙げられる。しかし、ヒトの排卵周期が正確に特定できるようになったのは1924年のことであり、また周期の安定しない女性も多く、他の方法との併用なしでは失敗することが多かった。器具を用いる場合であっても日用品を転用できる場合にはコストがほとんどかからず、すぐに実践することができた。綿花などをタンポンとして膣内に詰めて性交後に抜き取る方法は1930年ごろまでクリニックで教えられ、なかでも吸収性に富むスポンジが使われることが多かった。19 専用の避妊器具となると、適切に使いさえすれば効果はある程度保証されていたものの、それを購入することがひとつのハードルになった。特に貨幣経済が成熟していない地域ではアクセスするのが難かったと考えられる。20 早くから登場したのは、性交直後に膣内に挿入し、精液を洗い流すための洗浄器だったが、雑誌などを通して大々的に宣伝されたわりには効果はいまひとつだった。より確実なものとしては、ゼリー状の殺精子剤がペッサリーとともに利用された。これらは女性が主体的に使うこのできる避妊器具だった。

男性用コンドームはもともと避妊のためではなく、性感染症予防のために考案されたものである。そのため、男性の性交中の快感が若干損なわれるという欠点があり、このことがしばらくの間普及を阻む一因となっていた。しかし第一次世界大戦後に材質がゴムからラテックスに切り替えられることによってはるかに薄くなり、単価も下がったため急速に広まった。21 このように、1960年代以降に経口避妊薬ピルが登場するまでの避妊器具は、精子の侵入を防ぐという目的をいかに便利な手段によって果たすことができるかを模索することによって生み出された。注目すべきは、それぞれの避妊技術が純粋に避妊効果の大小だけでなく、コストや性交時のデメリット、避妊の主体が男女のどちらにあるかなどから総合的にみた便利さに応じて選択され、避妊器具を供給する側も、そうした需要に応えられるように研究開発を行なったことである。

以上に挙げた効果的な避妊器具が全国的に普及しはじめたのも20世紀前半だった。つまり、避妊がアメリカ合衆国に普及する条件のうち、性や生殖の価値観に沿った技術的革新はこの時代において認めることができる。出生率の推移とあわせてみても、大きな流れとしては避妊が普及する方向へ動いていたと考えてよいだろう。避妊が普及するためには性交を行なう当事者がそれを選択することが必須条件だったが、そのときに求められるのは避妊に反対しないことであり、避妊を積極的に普及させるために他者に働きかけることまでは含まれない。また、そのような流れができつつあるなかで、あえてそれに抗わなければならなかったコンテクストにはどんなものがあったのか、興味がわいてくる。

章のまとめ

このように、「誰が避妊を普及させたのか」という問いの立て方は複数の問題を抱えている。まず、第三者だけでなく性交を行なう当事者の利害関心に注目する必要があるが、そうしたコメントは往々にして聞き手や語り手、書き手の限界から特殊なものと位置づけられる。そのため、特に当事者としての個人によってなされた発言については語り手だけでなく、聞き手や書き手の性質や立場についても分析の対象とする必要があるだろう。また、「誰」を特定することは原理的に難しく、変化を追うのであれば個人も変化しうるものとして捉える必要がある。そこで、本稿は人ではなくコンテクストによって資料を整理する。
次に、いくつかの年表的事項や人口動態、避妊技術の発達を並べてみると、避妊が全国的に議論され、また普及を決定づけた転換期は20世紀前半だったと言える。この時代に避妊が普及するためには当事者がそれを選択することが必須条件だったが、「普及させる」という自覚を持っていたのは一部の人々に限られていたと考えられる。つまり、そのころの当事者たちにとっては避妊に反対しないで受け入れていくことよりも避妊に反対することのほうが大きなエネルギーを要したのではないだろうか。現段階においては仮説に過ぎないが、ひとまずこの仮説に従ってコンテクストを分類してみたい。

続く第2章および第3章ではこれまでの議論を前提とし、資料から集めた具体的な事例を歴史的背景と照合しながら解釈を加えることによって、どのようなコンテクストが重なり合い、結果として普及する結果となったのかを明らかにしていきたい。その際、先に述べた理由から、コメントがなされた状況に即して第三者としてのものと当事者としてなされたものとを区別する。

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16 Gordon, 29-30
17 確実な避妊法がひとつだけあるとしたら、それは禁欲を貫くことだが、禁欲そのものに失敗する可能性はある。
18 Frieze, Irene H. Woman and Sex Roles: A Social Psychological Perspective, New York: W. W. Norton and Company, 1978, 210-233
19 Gordon, 44
20 2章2節を参照。
21 Gordon, 64

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2007年11月26日月曜日

産児制限という習慣は...



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第2節 普及と抑圧

リンダ・ゴードン(Linda Gordon)によれば、産児制限という習慣は古代からさまざまな文化圏において広く認められるものだ。8 その一方で、個人による産児制限の試みをコミュニティが抑制する伝統も古い。9 それでは、避妊を普及させようとする力とそれを抑圧しようとする力の衝突が合衆国レベルに発展したのはいつごろなのだろうか。
まずは年表的事項をいくつか挙げることからはじめてみよう。当局が避妊を取り締まる法的根拠としたコムストック法が議会で可決されたのは1873年。「バース・コントロール」という用語がマーガレット・サンガー(Margaret Sanger)によって発明されたのは1915年のことだ。10 また、1916年10月16日にはサンガーによる最初のクリニックがニューヨークのブルックリンで開業している。11 避妊の普及と大きく関わる第一次世界大戦への参戦が決まったのが1917年4月。そして、避妊についてコムストック法を適用することが違憲とされたのは1936年のことだ。こうして列挙してみると、避妊が全国的な問題とされたのは20世紀前半と見てよいだろう。20世紀前半という時代を意識しつつ、続いて出生率や避妊技術の移り変わりをみてみたい。

人口統計の推移

人口統計に見られる変化から産児制限の広まりを捉えることはできないだろうか。1800年から2000年までのアメリカ合衆国における合計出生率は下のグラフの通りに推移している。12


図 1. アメリカ合衆国における合計出生率13


まず目を引くのは19世紀前半から第2次世界大戦期まで、出生率が人種に関わらず下降の一途をたどっていることである。すなわち、避妊の是非が公の場で論じられようになる以前からすでに出生率の低下は進行しており、何らかの抑制が働いていたことが読み取れる。図1は人種による出生率の差を示しているが、アメリカに関する統計を扱う際には地域による差も忘れてはならない。例えば、1940年に白人女性の合計出生率は2.22で底を打っているが、1930年代の南部白人小作農を対象としたヘイグッドの調査結果は6.4という3倍近い値をはじき出している。14 この数字は合衆国平均から見ればおよそ100年前の水準ということになるが、子どもが7人以上いた家庭が全体の2/3を占め、10人を超える場合も少なくなかったということから、その地域においてはむしろ自然なことだったことが分かる。したがって、子どもの数は2人か3人というほぼ均一な状態が全国的にあったわけではなく、都市部と非都市部ではかなり大きな開きがあったと考えられる。次に、都市部と非都市部を比較するため、居住地域別に見た20歳~44歳までの女性1,000人当りの5歳以下の子どもの数の変化を見てみよう。


図 2. 居住地域別に見た20歳~44歳までの女性1,000人当りの5歳以下の子どもの数15


2つのグラフから人種や居住地域による差は明白であるが、現代に近づくにしたがって徐々にその差が縮まっていることも見て取れる。このような傾向は、アメリカ人が人種や居住地域の差に左右されることなく、標準的な子どもの数として近い数字を思い描きながら計画的に家族を形成しつつあることを表しているのではないだろうか。

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8 Gordon, Linda. Woman’s Body, Woman’s Right: A Social History of Birth Control in America (Revised and Updated), New York: Penguin Books, 1990, 26
9 Ibid., 4
10 Ibid., 206
11 Ibid., 231
12 合計出生率(total fertility rate)は特定の時期に生きた1人の女性が生涯に産む子どもの合計数の平均より算出される。
13 グラフは“Fertility and Mortality in the United States,” EH. Net Encyclopediaの表より一部のデータを抜粋して作成した。
14 Hagood, 109
15 グラフはアメリカ合衆国商務省 編『アメリカ歴史統計・第Ⅰ巻(新装版)』東京: 東洋書林, 1999年, 54の「人種・民族、居住地域および知り上の区域別に見た20歳~44歳までの女子1,000人当りの5歳以下の子供数:1800-1970」という表より、一部のデータを抜粋して作成した。

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2007年11月25日日曜日

これまでのアメリカ合衆国における避妊の歴史は...



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第1章 「誰」が避妊を「普及させた」のか

第1節 不在の存在

これまでのアメリカ合衆国における避妊の歴史は、「誰が避妊を普及させたのか」という問いから出発し、「政治家や医師、聖職者などの男性エリート層と、自らの身体をコントロールする権利を獲得しようとする女性たちを中心とした運動家の闘い」という枠組みのなかで語られることが多かった。その一方で、当事者であるはずの個人が避妊の普及に対してどのように貢献したかについての議論は必ずしも十分にされていないようだ。確かに避妊について啓蒙するパンフレットの発行部数やクリニックの利用者数を見ると、運動家たちの活動は非常に大きな成果を収めている。しかし、避妊をとりまく状況が時代とともに変化するなかで、最終的に避妊をする/しないという判断を下してきたのは一貫して当事者、すなわち個人だったはずだ。そのため、制度上の変化や運動家たちの活動を追うことと、今日のように避妊はむしろ必要なことであるという価値観がおおよそ共有されるに至った経緯を説明することの間には、やはり隔たりがあると考えられる。

ただし、当事者である個人を研究対象とすることにはいくつかの障害がある。まず、当事者としての個人、とりわけ男性が避妊についてコメントした記録が極端に少ないことが挙げられる。なぜこのようなことが起こるのだろうか。これからしばらくの間、不在が存在していることの意味について考えてみたい。原因として考えられるのは、聞き手が語り手を促さなかったこと、語り手が発話しなかったこと、そして書き手が記録に残さなかったことの3つである。

聞き手の問題

社会学者マーガレット・ヘイグッド(Margaret Jarman Hagood)は1930年代にノースカロライナ州のピードモント地域やジョージア州、アラバマ州の白人小作農を訪ねてまわった。254世帯を対象とし、16ヶ月間に及んだインタビューの記録は『南部の母親たち』という著作にまとめられている。7 当時の南部小作農の日常生活を知るための資料として優れているが、夫の記述に関しては不在が目立つ。例えば本書の第2部では出産や育児についてかなりのページが割かれているが、これらのことに関してヘイグッドが夫たちに直接インタビューを行なった形跡は見られない。妻に対して投げかけた質問に対して、妻が夫に確認をとる様子はときおり描かれていることから、インタビューの際に夫がそばにいたこともあったようだ。それにも関わらず夫のコメントが残されていないのは、彼女の研究テーマが母親たちに焦点を絞ったものであったためだけではなさそうだ。聞き手のヘイグッドにも、出産や子育てが父親ではなく母親の役割であるという先入観があったと考えざるをえない。

語り手の問題

筆者も本稿執筆にあたり、「避妊について、自身はどう考えるのか」という質問を受けることが少なくなかった。そのたびに「私自身がどう考えるかと、20世紀前半のアメリカ人がどのように考えたかは区別する必要がありますが」と断った上で、私なりに誠意を持って答えるように努めた。ところがあとになって振り返ってみると、質問を投げかけた相手との関係や周りの状況などによって私の答えは少しずつ違っていた。趣旨は同じであったとしても、用いる言葉はその都度違い、また表情や身振りによって聞き手に異なる印象を与えたと考えられる。羞恥心がまったくなかったと言えば嘘になる。一対一で話をする場合と、複数名の前で答える場合とでは羞恥心からくるストレスの度合いが異なった。さらに相手の年齢や性別、社会的地位、そして何よりも信頼関係が大きく影響した。現代においても性的な事柄について語ることに対する抑圧は強いが、20世紀前半でははるかに強かったことを踏まえ、特にこのことを意識する必要がある。

また、あるとき私が避妊について肯定的な姿勢を示したところ、「それでは将来あなたが父親になったとする。そのとき自分の娘、それも未婚の娘が避妊を実践することについてはどのように考えるか」と追及されたことがあった。これは当事者として答える場合と、父親としての返答が異なることを暗に期待する問いかけだった。確かに筆者自身の個人的な体験は当時のアメリカ人がどのように考えたかとは無関係かもしれないが、自らが性行為の当事者としてコメントする場合と、第三者として意見を述べる場合とでは回答の変わる可能性があるという発想は分析を行なっていく上での手がかりとなった。

書き手の問題

通常は聞かれることも語られることもまずなさそうな一個人の発言が、「奇跡的に」残されているとしたら、それは何を意味しているのだろうか。ひとつにはそのコメントが書き手の意図に沿う何らかの特質を有していたと推察できる。あるいはそれ以外のコメントを代表しうる典型的なものであったと考えることもできる。前者はもちろんのこと後者の場合においても、均質なものが多数あったなかから無作為に選ばれたというよりは、言及されない他の要素を代表しうる性質を持ち合わせていたからこそ、意図的に選ばれたと考えたほうが理にかなっている。だからと言って、残されている記録を特殊なものとして捉えることは、必ずしも資料に対して悲観的に向き合うことを意味しない。書き手にとっての必然性に目を向けることができれば、ときにはテクストとして残されているもの以上のことを推測できるはずだ。

「誰」からコンテクストへ

個人を研究対象に含める際に問題となるのは、資料と実態との避けがたい不一致だけではない。仮にある男女が避妊を選択したとして、この場合、誰が避妊の普及に貢献したと言うのが最も適当なのだろうか。20世紀前半のアメリカ合衆国では、だいたいにおいて男性が性行為の主導権を握っていた。当事者に限定したとしても、決定権を握っていた男性の意志や協力の重要性を指摘することができる一方で、男性を説得することに成功した女性の発言権の増大に注目することもできる。どちらもそれなりの説得力を持っているが、どちらも決定的ではない。さらに第三者の働きかけを加味すると、当事者たちが避妊にアクセスする遠因となったであろう運動家たちの働きも無視できなくなる。このように、もし「誰が」を特定することが原理的に不可能であるならば、「誰が」という問いの立てかた自体に問題があることになる。

さらに言えば、生まれながらにして妊娠について知っている人がいないのと同様に、生まれながらにして避妊を受け入れている人もいない。それらのことは人生のある段階において対面するものであり、そのときには葛藤の程度に関わらず、個人のなかで何かが変わる。個人が変わることを前提とするのであれば、個人を分析の単位とすることが妥当とは言えない。むしろ、個人の発言がなされたコンテクスト(状況、文脈)に注目する必要があるだろう。第三者だけでなく当事者の利害関心にも注意を払い、さらに両者の発言をコンテクストに還元することによって、記録に残されなかった大多数の不在の存在が浮かびあがってくるはずだ。

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7 Hagood, Margaret Jarman. Mothers of the South: Portraiture of the White Tenant Farm Woman, New York: W. W. Norton & Company, 1977

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2007年11月10日土曜日

「人権」と比べて、「人命」という言葉は...



「アメリカ合衆国における避妊の普及」
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序論

「人権」と比べて、「人命」という言葉はよほど具体的で形あるもののように響く。ところが、ある対象を指してそれが命ある人間であるかどうかを決める基準は本質的なものではなく、ただ社会によって保障されているに過ぎない。例えば、アメリカ合衆国では1865年に憲法修正第13条が成立するまで、黒人奴隷は白人所有者の財産と見なされていた。そのため所有者から虐待を受けたとしても、厳密には殺人や強姦といった概念の成立しない時代があった。1

現代においても、特に医療の分野で命の境界についての議論が絶えない。20世紀後半には生命維持装置や免疫抑制薬の発達により、脳の機能が完全に停止している患者から臓器を摘出して移植手術を行なうことが技術的に可能となった。ニューヨーク州最高裁判所は1984年の時点で脳死患者からの臓器移植を合法とする判決を下し、同州は3年後に心肺機能の停止だけでなく、脳機能の完全停止を人の死の十分条件に加えている。2

命の終わりだけでなく、始まりについても同様のことが生命工学の分野で起きているが、より多くの人々に関わりのある問題としては人工妊娠中絶(以下、中絶)が挙げられる。1973年に合衆国最高裁判所が下したロー・ウェイド判決(Roe v. Wade)によって一時は制度上の決着をみたように思えたが、後に勝訴した「ジェーン・ロー(本名Norma Leah McCorvey)」本人がプロ・チョイス派からプロ・ライフ派に立場を変えて裁判を起こしまでした。3 また、大統領選挙があるたびに民主・共和両党の候補者が中絶論争における自らの立場を表明し、大勢の有権者たちの関心を集めている。4 さらに2005年2月には、サウスダコタ州の議会で母体の生命に関わる状況を除いていかなる中絶手術も禁ずる法律が可決された。レイプや近親相姦による妊娠であっても中絶を認めないという厳しい内容だったが、翌月には州知事マイク・ラウンズ(Mike Rounds)によって承認されている。5 このような議論が繰り返し行なわれていることからも、いかに「人命」の定義が危ういものであるかがわかる。

中絶(abortion)にいたる前段階としての避妊(contraception)も同じ産児制限(birth control)という言葉でくくられる。中絶をめぐる議論がいまなお紛糾しているのに対して、避妊の必要性については現代アメリカ社会の中でおおよそのコンセンサスが形成されている。しかし、過去には避妊器具の輸送や避妊に関わる情報が猥褻物を取り締まる法律によって規制され、州によっては夫婦であっても避妊を実践することが認められない時期が20世紀中ごろまで続いた。したがって、避妊の是非についての論争も決して前世紀の問題だけではなく、将来的に再燃する可能性を秘めているのではないだろうか。

本稿の一番の目的は20世紀前半のアメリカ合衆国において、なぜ避妊が普及したのかを明らかにすることである。バース・コントロール運動は女性参政権成立を目指す、いわゆる第一波フェミニズム運動と時期を同じくしていることもあり、先行研究が豊富にそろっている。6 まず、第1章では先行研究や統計をもとにこの現象をとらえるための前提事項を整理したい。続いて第2章では避妊に「反対しなければならなかった」コンテクストを分析し、逆に第3章では避妊に「反対しなかった」コンテクストを分析する。なお、後半の2つの章では立ち位置によって「第三者によるもの」と「当事者によるもの」を区別して分析を行なっていく。一連の作業を通して、避妊の必要性がほとんど自明視されている現状が変化する契機となりうるものも浮き彫りになるはずだ。

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1 鈴木透『性と暴力のアメリカ―理念先行国家の矛盾と苦悶』 東京: 中公新書, 2006年, 41-42
2 “Failure of Brain Is Legal ‘Death,’ New York Says,” New York Times, June 19, 1987
3 “New Twist for a Landmark Case: Roe v. Wade Becomes Roe v. Roe,” New York Times, August 12, 1995
4 2004年の大統領選挙では共和党のブッシュ(George W. Bush)現大統領が中絶に反対する姿勢を見せた。
5 “South Dakota’s Governor Says He Favors Abortion Ban Bill,” New York Times, February 25, 2006
6 渡辺和子 編『アメリカ研究とジェンダー』 東京: 世界思想社, 1997年より、栗原涼子「女性史 第一波フェミニズムをめぐる女性運動史」, 2-21

「アメリカ合衆国における避妊の普及」
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2007年5月1日火曜日

マクドナルドの面接風景



待ち合わせに早く着きすぎてマクドナルドで時間を潰していたら、客席でアルバイトの面接が始まった。面接はごく普通に「履歴書を見せてください」で始まり、青年も真剣に受け答えをしている。ついつい気になって聞き耳を立てていたら、

「○○さんはどうしてマクドナルドで働きたいと思われたのですか?」
「父も母も若い頃にマクドナルドで働いていた、という話を聞いたので」

というくだりは下手なCMより感動して泣きそうになった。演出か? 今日のチーズバーガーはいつもよりちょっとしょっぱいんじゃないかい。

2007年1月10日水曜日

Notes of James Baldwin, Going to Meet the Man (4/4)



Notes of James Baldwin, Going to Meet the Man (1/4)
Notes of James Baldwin, Going to Meet the Man (2/4)
Notes of James Baldwin, Going to Meet the Man (3/4)

The oldest memory was the aforesaid lynching, which was literally a scene of excluding an outcast. In the United States, one’s race is determined by the One-Drop Rule; i.e. a principal that counts anyone as a black person, if he/she has at least one black ancestor. 4 The institution does not allow a single drop of black blood in a white person. In the meantime excessive bleeding in the scenes of violence appeals the visual identity of the blood of two races.

Moreover, the frail deposition of the “pure” white race, for the reason of the exceptional definition, is revealed, notwithstanding the fact that the concept of races was invented from social necessity of the white authority. The number of black people was destined to increase unless the miscegenation was strictly prevented. Jesse’s fear of the expected changing balance of population, which would lead to the changing balance of political power, is revealed assuming the form of irritation as, “pumping out kids, it looked like, every damn five minutes.” (935)

During the lynching, Jesse witnesses the biggest genitals he had ever seen, and recognizes his mother’s face enraptured by the sight. It is important that Jesse’s masculine gender image was produced by the reflection of the participants. Jesse could not see the victim enough by himself, and what he experienced was mostly the reaction of the crowd.

At last he found out the gender image in the victimized black man. Jesse stopped looking back on the past, awakened his wife, urging, “Come on, sugar, I’m going to do you just like a nigger, just like a nigger, come on, sugar, and love me just like you’d love a nigger.” (950) By pretending himself to be a black man, and regarding his wife as a black woman, he regained his sexual ability. In other words, he accepted what he had refused, though they were only images which had distance between the realities. As a result, he may become a father of a new life, undoubtedly a white child, but also having something to do with the black race. This closure is organized as it leaves a grotesque impression in proportion to the racial prejudice of the reader.

Consequently, Going to Meet the Man can be counted as one of the “everybody’s protest novel” for both its form and content. Baldwin’s writing is distinguished from other protest novels for he chose white male elite as the protagonist, and accepted the race relations in the American South of those days. The personality of Jesse is also affirmed repeatedly; however, the narration is questioned by the repetitive usage of “he supposed,” thus it is not presented as the objective truth, but as a subjective view, negatively referring to the excluded possibilities. 5

The novel is eminent in another point that Baldwin comprehended the racial discrimination as a duplication of gender images. Instead of directly presenting the sexual strength of black people, he exposed the contradiction that both the images of the black and women had been constructed by the minds of white men, and yet they were distressed by inferior complex or fear toward what they have convinced. Their unreasonable fear was actually to some extent reasonable as long as the definition of one’s race depends on the One-Drop Rule.
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4 The color of one’s skin is not necessarily important.
5 “And he was a good man, a God-fearing man, he had tried to do his duty all his life, and he had been a deputy sheriff for several years. “ (934)

2007年1月7日日曜日

Notes of James Baldwin, Going to Meet the Man (3/4)



Notes of James Baldwin, Going to Meet the Man (1/4)
Notes of James Baldwin, Going to Meet the Man (2/4)

“What a funny time […] to be thinking about a thing like that,” (935) Jesse says to his wife. It is two o’clock in the morning, and his utterance took place in their bedroom. However, Jesse is experiencing his first impotence, and both of them are thinking about the black people, which the husband detests to excess. He does not only curse them by saying, “What had the good Lord-Almighty had in mind when he made the niggers?” (934) but by working as a sheriff, he attempts to exclude them from the community. Described as following, the man seemed to be the last person to be distressed by impotency in the first place:
He was a big, healthy man and he never had any trouble sleeping. And he wasn’t old enough to have any trouble getting it up―he was only forty-two. (934)
Jesse becomes totally bewildered and imputes the responsibility saying, “It’s not my fault!” first to his wife, then to the black. Indeed, he heard a car coming closer to their house, and recognized the headlight traveling across the room. Although the windows were shuttered and Jesse could not verify, he believes that they were blacks in the car. Furthermore, he reached for his gun in fear. Jesse’s strange conviction and fear are important concepts that the author reiterates in the text.

By degrees, he traces back to the past—from the day before, to his childhood—seeking the reason for his physical problem. In short, the story begins with a white male elite’s impotency and ends with his recovery. It is clear all the more when the title is put into concern, that Going to Meet the Man is readable as a quest for the masculine gender image.

To begin with, Jesse recalls a black ringleader whom he tortured in the daytime. The victim is described as, “one eye, barely open, glairing like the eye of a cat in the dark,” which bears a close resemblance to Pluto, a cat beaten by a white narrator in Edgar A. Poe’s The Black Cat. Furthermore, the adolescent’s message, somehow lengthy for a dying person, should remind some readers of another Poe’s novels; William Wilson. It is interesting that neither story concede the singularity of the narrator’s self, but contrasts with another character that has the excluded identity of the narrator. Especially The Black Cat is worth comparing with Going since it refers to the intimate relation between race and gender. The narrator of The Black Cat makes an attempt on two cats’ lives; succeeded with the first one, but ended in failure with the second. Both cats were black, though the second’s chest was speckled with some gray hair proposing the miscegenation of its parents. Black cats were more than cats; they were menace to the narrator’s relationship with his wife. Therefore, the word “ringleader” is suggestive. The dying young man is called so as if he can jeopardize the wedding ring. Jesse’s sexual complex can also be recognized from the description that he “grabbed his privates,” (937) while listening to the black man.

The second episode which recurred to his mind was about a black boy who refused a chewing gum. The boy is not more than ten, though he says, “I don’t want nothing you got, white man,” (938) and shuts the door behind him. 3 As a deputy sheriff, Jesse is generally an agent of racial discrimination in the community, in place to enforce the law and justice, but at least in this scene, he is forced to be the object.

Notes of James Baldwin, Going to Meet the Man (4/4)

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3 Judging from Baldwin’s former arguments, the way this boy "protested" is invalid since it is only a repeition of racism.
The Fall of the House of Usher and Other Writings: Poems, Tales, Essays and Reviews (Penguin Classics)The Fall of the House of Usher and Other Writings: Poems, Tales, Essays and Reviews (Penguin Classics)
Edgar Allan Poe David Galloway
Playing in the Dark: Whiteness and the Literary ImaginationPlaying in the Dark: Whiteness and the Literary Imagination
Toni Morrison

2007年1月6日土曜日

Notes of James Baldwin, Going to Meet the Man (2/4)



Notes of James Baldwin, Going to Meet the Man (1/4)

First, realistic aspects of the novel should be discussed, since it is influential with the persuasiveness of the work. The demonstrators are mentioned by Grace as, “They going to be out there tomorrow,” thus it is conceivable that the present time in Going is set in the days of the civil rights movement; i.e. early in the 1960’s, which coincides with the period of writing. (933) According to the statistics, the number of lynchings reached a peak in 1882 in the American South, and yet they still appear in records of the 1920’s. (Raper, 480) This historical background corresponds with Jesse, a man of 42, witnessing a black man tortured, as an 8 year old boy. 1

In Everybody’s, Baldwin criticized the renowned protagonist of Stowe’s Uncle Tom’s Cabin for being too patient to consider as a realistic character. (20) Conversely, the illusion that African-Americans exhibit certain unnatural characteristics is excluded from Going to Meet the Man, even when they are severely oppressed by the white. It is notable in the extreme at the sight of lynching, which recalls the scene of Passion, though the victim did not say, “Forgive them, father! They don’t know what they are doing,” as Jesus prayed in the Gospel according to Luke. (23; 34) Nor did “the sun stopped shining and darkness covered the whole country until three o’clock; and the curtain hanging in the Temple was torn in two,” after his last breath. (Luke, 23; 44-45) Rather, the black man uttered meaningless sounds, screaming in both fear and pain until he was finally burnt to death.

Moreover, descriptions of harsh violence do not allow the reader consider them as sensational dramatizations which are far from the historical fact. On the contrary, emasculating and burning the victim alive was one of the typical processes, when lynching functioned as a social ritual in the South. In The Tragedy of Lynching, Arthur Franklin Raper analyzed the reasons of lynching in the United States, and indicated that white men, the executors of lynching, were nervous about both direct and indirect risks of black men approaching white women. 2

Actually, more brutalities were recorded, as in the cases of C. J. Miller, or Henry Smith; their skins were stripped off, fingers were served from both hands and feet, or they were shot by innumerable bullets. (Wells, 92) Hence, if Baldwin had an intention to emphasize the cruelty, he could, without marring the reality of the text; though he did not in order to avoid sentimentalism.

Consequently, Baldwin was successful in defending the persuasiveness of Going by eliminating illusions which were generally inherited among traditional protest novels, and observing the reality of a particular actual community, the American South. However, as long as a novel is valued by the correlation between the narrative and the reality, it should be difficult to surpass historical documents. Now the emphasis of discussion moves on to examine the way Baldwin’s creative imagination affected the work.

Notes of James Baldwin, Going to Meet the Man (3/4)

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1 Jesse is a name allegorically interpretable as “Je see,” the viewer.
2 The main reasons were murder (37.7%), followed by rape (16.7%), and attempted rape (6.7%).
The Tragedy of LynchingThe Tragedy of Lynching
Arthur Franklin Raper
The Red RecordThe Red Record
Ida B. Wells-Barnett

2007年1月5日金曜日

Notes of James Baldwin, Going to Meet the Man (1/4)



James Baldwin was one of the first writers to put in question the common feature of so-called protest novels written by earlier novelists. His awareness of issue toward racial discrimination is explained in the last lines of his essay, Everybody’s Protest Novel, which first appeared in print on 1949:
The failure of the protest novel lies in its rejection of life, the human being, the denial of his beauty, dread, power, in its insistence that it has categorization alone which is real and which cannot be translated. (19)
Judging from above, the crucial problem of racism in the United States is not the situation of the white having predominance over the black, but the disposition that their race aside individualities are buried in oblivion. Baldwin required reconsidering even the novelists who were thought to have been “conscientious,” such as Harriet Beecher Stowe and Richard Write, for they share a kindred premise in their writing; good blacks and bad whites. He insisted that their narrative is simply an inverted image of the binary opposition between the races, revealing the limited imagination of the authors; even strengthening the stereotype produced by the white.

Paradoxically, dealing with racial discriminations may collude with racism itself. This theory became a milestone in the tradition of protest novels, at the same time putting Baldwin, as one of such novelist, into a dilemma. The purpose of the following notes are to examine Going to Meet the Man, a representative novel by the same author, written 16 years after the essay, and to discuss how it is organized as an “everybody’s protest novel.”

Notes of James Baldwin, Going to Meet the Man (2/4)

James Baldwin: Early Novels and Stories (Library of America)James Baldwin: Early Novels and Stories (Library of America)
James Baldwin Toni Morrison
Collected Essays: Notes of a Native Son, Nobody Knows My Name, the Fire Next Time, No Name in the Street, the Devil Finds Work, Other Essays (Library of America)Collected Essays: Notes of a Native Son, Nobody Knows My Name, the Fire Next Time, No Name in the Street, the Devil Finds Work, Other Essays (Library of America)
James Baldwin Toni Morrison